【小説を推敲する】歌仙の夢1 第3稿

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小説は推敲する物。

最初から完成稿が書けるわけではないです。

 

と、何度かあちこちで書せていただきました。

 

↓こういう説明も動画を作りました。

(1) 小説の書き方 『第一稿、第二稿』の意味 - YouTube - YouTube

 

長いので、実際に、テキストを記事にコピー&ペーストしていきます。

 

同じ小説の、多少違ったバージョンが

いくつも記事になりますが、ご了承ください。

 

今回は↓この小説の第一稿から、第五稿までです。

[R-18G] 【刀剣乱舞 兼歌】歌仙の夢 桜湧 | 晶山嵐 #pixiv 

 

 『歌仙の夢 桜湧(おうゆう)』第3稿。

「なぁ、どうしてあんなことしてんだよお前!」
 本丸の片隅で、和泉守兼定が近侍の歌仙兼定を問い詰めていた。そのまま首を掻きそうな勢いだ。
「あんなこととは?」
 対して歌仙は、海のように深い衣を着込んで、いつものようにふわりと笑んだまま、まともに和泉の顔を見ようともしない。
 歌仙が他人を真正面から見ないのはいつものことだ。
「よその藩のジジイの下で股を開いてたことだよ!」
 和泉が迫ってくるから歌仙は下がり、すでに本丸の外壁の隅に押し込められている。和泉の長い腕が白い壁に突っ張り、こすれすぎたのだろう、血が伸びた。彼が怒鳴るたびにその長い黒髪が、歌仙に巻きつこうとするかのように舞い上がる。
 先程、和泉は審神者の御前で歌仙を見つけ、「誰も来るな! 叩っ斬るぞ!」と怒鳴って歌仙を連れ出したので、辺りには誰もいない。
 いつもは明るく調子の良い和泉だが、たまに喉が枯れるほど激昂して怒鳴りまくることがある。そういう時はなんの取りなしも聞かない。和泉自身が自分で納得して落ち着くまで、絶対に止まらないのだ。誰かが取りなしに入ったら、余計にその怒りは長引いてしまう。イタズラ好きの短刀達も、誰一人こうなった和泉を覗こうとはしなかった。
 数度しかそうなったことは無いが、毎回歌仙がらみだったので皆納得していた。
 歌仙に関することで和泉をからかってはいけない。
 それは、この本丸での不文律だった。
 和泉も、激しい性格だからといって無為に手を上げる男ではない。自分の強さを知っている。
 彼らは普通の人間ではない。血で血を洗って生きていた刀の付喪神だ。その『強さの差』には、人間のような限界がない。
 人間ならば、巨漢の寝返りで子供が押しつぶされたとしても、痛い、とか、骨折あたりで済む可能性が高いが、付喪神の世界でそれぐらいの強さの差があると、最悪、存在そのものを抹消される程の危険性があった。
 歌仙が審神者に召還され、本丸で刀を参集し始めた四振り目が和泉だ。そこから歌仙と共に血戦をくぐり抜けた彼は、歌仙には未だ及ばないものの、堂々たる最古参の一番太刀。陸奥、鶯丸、次郎太刀がそれに次いでいるが、力の差は歴然だった。堀川国広も、この本丸にたどり着いたのが遅く、とてもではないが激怒した和泉を押さえるだけの力は無かった。和泉が激情のままに手を振り払っただけで、堀川の首が吹っ飛ぶ可能性もある。 
 だが、勢いがあるだけで、和泉自身は『乱暴者』というわけではないのだ。日々、非常にうるさいし、よくモノを壊すけれど、口があるものに力を奮うことは少ない。
 そのくせがあるからだろう、こうして歌仙を追い詰める時でも、その体には触らない。歌仙は和泉に、よしんば殴られてもペチッと痛いだけで済むが、短刀なら強く引き寄せられれば肩の骨が外れる。
 和泉がそう簡単に触れてくることが無いとわかっているからか、歌仙も普段通り、しゃなりとそこにいるだけだ。
 総勢三六振りの刀が集まったこの本丸で、最初から近侍として采配している歌仙は、その経験値も高く、手抜かりも無いので誰も逆らえなかった。否、逆らおうと思うことがまず無い。
 和やかな笑顔でまわりを和ませ、雅びを解さないと言ってたまに厭味を言う人間味もある。戦場での雄姿も勿論皆知っているから、みくびるものなど一人もいない。
「君は、黙っていれば雅びなのに……」
 と、和泉にため息をつく姿ももう皆慣れっこだ。たまに、歌仙が和泉の髪を梳っていたり、和泉を派手に着飾らせたりすることがある。どこのお姫様だお前は、と、みな、目を細めて眺めていた。最近ではそれに堀川が加わったので、和泉はたまに歌舞伎者と化していることもある。
 そういうときは和泉もしばらくしゃなりしゃなりとしているのだが、やはり生来の気性が激しいために、すぐに騒ぎを起こして歌仙に怒られる。黙る。うろうろしだす。騒ぐ。その繰り返しだ。
「歌仙は? 歌仙どこにいる!」
 和泉がそう喚きながら本丸中を駆け回っているのも日常風景だ。他の者では手合わせの相手にもならない。ヒマがあれば歌仙と手合わせしたがって、騒いで、怒られて、シュンとして、歌仙の傍で正座して、足が痺れて転がって、それでも歌仙に無視されて、喚きだして、道場に殴りこんで一〇〇人乱取りを仕掛けてようやく収まる。
 本丸の天気は和泉次第と言っても過言ではない。
 そんな和泉が歌仙を引き連れて『覗くな』と言われたら、誰もがその反対側に固まって壁を愛でるしかないのだ。次郎と陸奥と薬研だけが、お互いに目を見交わしてくちびるを噛む。
 以前の和泉の大噴気は、歌仙が怪我を隠して出陣したことだった。しかも、和泉をかばって重傷になったのだ。せっかく手入れが終わって出てきた歌仙を、また重傷にするのかと言うほど衿を掴んで振り回していた。
「俺はてめーを守るために出陣してるんだっ! 俺をかばっててめーが重傷になってどうするっ! 俺たちどうしていいかわかんねーだろっ! 御大は後ろで俺たちに命令してりゃいいんだよっ!」
 しごくもっともな言い分で、みな頷いた。だが、仲間である和泉をかばった歌仙を責めるのも忍びない。ただ、進行方向を知っているのも歌仙だけなので、歌仙が重傷で口も聞けない状態になってしまうと、帰還も大変だったのだ。報告書には、『進軍先』までしか記述されないが、奥にいけば行くほど『帰還』も同じだけの戦闘が勃発する可能性は高い。重傷者を担いで山間を忍び帰るのは簡単な話ではなかった。
 和泉の大噴気はそういうものだとみなわかっている。自分のためではないのだ。歌仙が危ないから怒っている。今回もそうだろうとみな思った。
 新参の者たちはそれに口をはさむことはできないし、和泉以外の最古参は短刀だ。太刀に怒鳴られては吹っ飛ばされる。強いて言えば鶯丸も最古参の一人だが、彼はこういうときに割って入る性格ではなかった。
 遅参した堀川とて、歌仙のことに関しては和泉に何をいう口も持ってはいないのだ。以前は相棒だったけれど、今生での歌仙と和泉との距離は、自分よりはるかに近い。堀川と和泉が前世で一緒に居た時間より、歌仙と和泉が今生で共に過ごした時間の方が長いのだ。
 そんな各所の思惑の中、誰も引き止めないまま、歌仙は城の隅で和泉からの憤怒を被っていたが、涼しい顔をしている。それがまた、和泉は肚立だしい。
「要領よく話してくれないか? 君の怒鳴り声は、言葉が聞こえないのだよ。何を怒っているのだね?」
「こないだの遠征に、隠れてついて行ったんだよ!」
「誰が?」
「俺がに決まってんだろっ! ここで陸奥がついていった話しすると思うのか! てめぇはっ!」
「君が何を話したいかなど、僕が知るはずないだろう」
「あーーーーっ! またそうやって話し逸らそうとするっ!」
「逸らそうとはしていないよ」
「うるせぇっ! 黙れっ!」
「君の声が一番うるさいだろう」
「俺の言うことを聞けぇっ!」
「だから、聞くから、声を落としてくれ、と言っているのだろう。君の声だけで、この壁が壊れそうなのだから」
「だか…………っ……ガフッ!」
 和泉は、喉に正拳突きを受けてむせ返った。それでも、両手は壁からはなさない。
 咄嗟に跳ねたしずくで汚れた手を、歌仙は和泉の服で拭って大きく息をついた。
「私は話を逸らそうとはしていない。その証拠に、ちゃんと話を戻して上げるよ。君が、前回の遠征に隠れて着いてきたと言ったところからだ」
 多少痛みが走る自分の手首をさすりながら、歌仙はそこに吐き戻している和泉を眺めた。
「なっ……んで、俺たち付喪神なのにっ……、内臓なんて……っ……あるんだクソウッ!」
「人の姿を取ったからだろう。人に近づくために顕現したのだから、人の姿を借りるのが一番人にわかりやすい。その時に、この機能は必要ないから、などとより分ける方が面倒だろう…………と僕は考えているよ」
「美味い飯が食えるのは嬉しいがな」
 何度も大きく息をついて、ようやく和泉が顔を上げた。
 アー、アー、と痛んだ喉を伺いながらも、歌仙を睨み付けている。普段これだけ時間があけば先程の怒りなど忘れていそうなものなのに、その視線がそれを否定していた。
「三度目の正直だな。お前、遠征先でなんであんなことしてた」
 嗄れた声で低く唸られて、歌仙はふわりと微笑んで見せた。だが、いつもなら見とれて茫とする和泉に、それは効かないようだ。
「あんなこと?」
「何度言わせるつもりだっ!」
「最初の数度など、君が怒鳴っていたから、何も聞けていないと言っただろう」
 ガリガリガリッ、と和泉が自分の頭を掻きむしった。その指に抜けた髪が絡みつき、爪に血がにじんでいる。その手でまた壁に手をついて、歌仙と鼻が触れる距離で唸った。
「お前が、太った爺の下で足を開いてたことだよ」
 血のにおいが歌仙の息を止めたいかのように圧迫してくる。
「なぜ?」
「なぜ!」
 ひょうひょうと聞き返してきた歌仙に、和泉は怒髪天をついた。
「なぜ、君はそんなことが聞きたいのかな」
「なぜっ? 聞きたいに決まってるだろ!」
「たから、なぜ?」
「お前のことだっ!」
「僕のことだから? だから、なぜ?」
「なぜって……」
 和泉は、なぜ聞き返してくるのか、と歌仙を見つめた。是か否では答えられない質問だが、なぜ自分が質問を返されているのかが和泉にはわからない。
「君は、僕がしていることすべて聞きたいのかい?」
「当たり前だろっ!」
「だから、なぜ?」
「なぜって…………っえっ?」
 和泉の怒りは混乱に変わろうとしていた。
「君は、僕と審神者の会話を聞き出そうとしたことはないだろう? 本丸で僕が何か書き物をしていても、その先を聞いて来たことは無いね? 僕が君を着飾らせた時も、なぜ僕がそうするのかを聞いてきたことは無いだろう? 君が、僕のことで知ろうとしないことはいくらでもある。なぜ、これは聞きたいのかかが、僕にはわからない」
 たしかに和泉は、歌仙と審神者が何を喋っているのかに興味は無い。歌仙が書き物をしている時は、誰かに手紙を出すのだろうと、その宛て先や内容を聞いたことは無かった。自分を着飾らせることに関しては、歌仙が非常に楽しそうだったので、娯楽の一つなのだろうと聞かなかったのだ。
 だがそれは『歌仙のことを知りたくなかった』わけではない。
 俺が質問してた筈なのに、なんで俺が質問されて、その答えで混乱しなきゃいけないんだ?
 和泉の頭のどこかで誰かがそう怒鳴ったが、そんな理屈めいたことを和泉が思い付いたわけではない。ただ、もんもんとしたものを投げつけられて目の前が真っ暗になったように感じているだけだ。
 歌仙が喋りたくないことなのだろうことはわかる。そういう時、歌仙はいつも、逆に質問攻めしてくるのだ。和泉が歌仙への質問をあきらめても、歌仙は止まらない。一度疑問に思ったことは、自分が納得するまで頭に残って、そのあと何もできないのだと和泉は聞いたことがある。だから、極力歌仙の質問には答えようとしているが、そこには知能の限界があった。
 歌仙は頭脳で生きているが、和泉は瞬発力で生き抜いてきたのだ。反射神経で生きている和泉にとって、理屈を問われることほど苦しいことはない。
「お前がそういうことをしてるって噂になってるからだろうがっ!」
「そういうこととは?」
「お前がっ、遠征先でそういうことをして、軍を維持する金を稼いでるって話だよ!」
 次郎が入ってきたときに、陸奥とそういうことで言い争いになっていたのを和泉は聞いてしまったのだ。その時は、それがなんのことかわからなかった。だから、そのあとしつこく陸奥に問いただし続け、根負けした陸奥が教えてくれたのだ。
『あくまで噂じゃきぃ』
 何度もそう前置きして大きなため息をつく陸奥。
『歌仙様指名で、遠征の要請が入るのは前からじゃき。それが最近ふえとるぜよ? どうも、大名の間でそういう噂が広まっとるらしくて、次郎がここに来たあとで、次郎に直接そういう話を持ちかけた奴がおったんじゃと。『いつもは歌仙殿に頼むが、たまにはお前も来い』言われてヒス起こしてたんぜよ』
 さんざん陸奥に憤懣をぶつけた後で次郎は言ったのだ。
『歌仙様も雅びがなんだとおっしゃりながら、巧いことやってんじゃなぁい』
 通りがかった和泉には次郎のその声だけが聞こえた。その前後の会話は聞こえなかったし、そのまま通りすぎる筈だったのに、陸奥が次郎の頬を張り倒したので駆け寄ったのだ。女の子に手をあげるんじゃねぇっ! と言い掛けて、こいつ男だった、と思いなおし、でも、本丸での暴力ざたは見過ごせない、と間に入った。先に来ていた陸奥の方がかなり強い。案の定、次郎は垣根の向こうまで吹っ飛んで呻いていた。
 いつもなら慌てて助け起こしそうな陸奥が、その次郎を何度も指さして怒鳴る。
『おまんはどうかしらんがよ、俺は、歌仙殿の男気に惚れてここにおるんじゃきっ! あんお人を侮辱するんは許さんぜよっ!』
 助け起こした和泉の腕の中で、血を吐き捨てながら次郎も怒鳴った。
『侮辱なんてしてないわよ! ホントのことじゃないのっ!』
『軽口にしていい真実とそうじゃないもんがあろうがっ! そんなこともわからんのなら、その真っ赤なくちびる縫うちゃるきにっ!』
 いつも朗らかな陸奥があんなに怒ったのを和泉が見たのはあの時きりだ。彼は、和泉とは違う意味でムードメーカーなのだから。騒ぐときも波長が合うので、和泉の親友と言ってもいい。
『まぁ、陸奥、落ち着け。俺が喧嘩止めるっておかしいだろ』
 和泉が仲裁すると、二人の視線が和泉に落ち、二人ともが跳び上がった。
『えぇっ! イの字! いつからそこおったんぜよっ!』
『ホントだっ! なにあんたっ! 忍び足なんていつ覚えたのよっ!』
『いや、俺、ここまでドスドス来たし! お前助け起こしたのも俺っ!』
『あ……ありがとさん…………』
『とにかくっ! 次郎っ! それ他で言うんじゃないぜよっ!』
『わかったわよーっだっ!』
 舌を出して走って行った次郎を見送って回廊に上がった和泉に、元からそこにいた陸奥は大きく息をついて肩を竦めて見せた。
『なに? 遠征の話か?』
『……ぁあっ? ……………………ぁあ………………聞いてなかったんかおんし』
『遠征で歌仙が花を売ってるってのは聞いたぜ? 庭の花とか? 金になんの?』
『あー………………まぁ、なんぼでも金はいるじゃろ? こんだけ軍隊抱えちょったら』
 陸奥は、竜馬について世界を見ていたために見聞が広い。日本では『金銭的なこと』は言わぬが花、だが、そういうところも飛び越えて真実を突いてくる。
『金は無いと困るぜよ』それが陸奥の口癖だ。
 その時に、薬研藤四郎がそそそ、と近づいてきた。
『その噂、助長するわけではないですが、この藩の財政で、僕たちのような金のかかる軍隊を維持できる税収はないと思うのです』
『藩ったって、どこかの大名の所に審神者が間借りしてんだろ? 俺たち付喪神なんだし、現世の金は関係ねぇんじゃねぇのか?』
 そもそも、『金』がどういうのものか、和泉ははっきりとは知らない。
 本丸に帰ってくれば食事も布団も手入れもできるし、服や飾り物はは女の子たちが山ほどくれる。未だ『銭』を和泉は触ったことが無い。
 審神者の求心力を餌にして集められいてる付喪神たちは、『給金』に類するものを支払われてはいなかった。
 土方は和泉をよく連れ歩いてくれたが、伴の者が会計をしていたし、帰宅すれば床の間に飾られていたし、土方は別の部屋で金勘定のことを処理していた。
『ですが、刀を維持する材料や食費などは現世のものですし、資材には莫大な資金が必要ですよ』
『莫大ってどんぐらい? というか、イジヒとか、シキンってナニ?』
 そこからかおんし……と、陸奥が眉を寄せたが、和泉のこの艶やかな姿を見れば納得せざるを得ない。
『玉鋼なんて、普通の刀には使いませんから』
『え? そうなの?』
『僕たちは歴史上で稀にみる名刀の集まりですよ。同時代に数本作られたことなど無いぐらいの。つまりは、その時期にはその一本を作るぐらいしか資材が無かったとも言えるんです。それを今、一気に集めてますから、莫大な金子がかかっていますよ。だからこそ「間借り」する必要があったんです。現世の資材が何も必要ないのなら、山の中にでも本丸を作れば良かったんですよ』
 財政状況など一切考えたことも無かった和泉は二の句が告げない。反論するなんの材料も持ってはいなかった。
 今生では自分たちの姿が人間全員に見えている。だが、自分たちはこの時代の姿をしていないのに誰も不思議に思わない。そういうのは審神者の手練なのだと和泉は歌仙から聞いていた。
 元々が、刀である自分が肉の体を持っている、ということ自体、和泉には意味不明だ。大分なれたが、自分の体が硬くはない、とか言うより先に、自分が『ものを考えている』ということすら、意味がわからない。
 刀であった時も『見て』はいた。だが、それについて『考える』ことなど一度も無かったのだ。
『こんなでかい軍団維持するの、普通は個人じゃ無理じゃき。あれだけ遠征で金稼いでるってことは、審神者からのじゃ足らんっちゅーことぜよ? そんじょそこらのことで集まる金子じゃないのはわかるき……そこを追求する気は無いちゃ』
『食費を浮かせるために、畑仕事しなきゃいけないんですね。がんばります!』
 拳を握った薬研の頭を和泉は撫でた。
 今では歌仙も畑仕事を嫌がるが、最初のうちは、みながいやがるそれを歌仙が率先して、していたのだ。歌仙がしていたから和泉も助けた。今では膨大な畑で農作物が取り入れできる。ほとんどは芋だ。本丸の主食は焼き芋だった。
 普段は涼しい顔をしている歌仙が、緑の中で汗角髪して眉を寄せている姿は、珍しくて面白かった。和泉がそれに慣れたころ、歌仙の顔にそばかすができ始めて、絶対畑仕事が悪いのだと、和泉がさせなかったのだ。その頃には本丸も賑わっていたし、誰でも代わりは居た。今、歌仙は真っ白な顔をしている。やはり、畑仕事がそばかすを作ったのだと、和泉は睨んでいた。
『おんしはなじぇにそがいなこと調べちゅーと?』
『信長様はこういうの詳しかったから。なんか、この本丸どうなってんだろうと思ったんだよ』
『どうなってるってどう?』
『金が無いのに町で飯食えるとか、刀装って玉なのに、兵隊になるとか、意味わかんねぇだろ?』
『意味があるのか?』
『この世に意味のないもんはなかっちゅーよ』
『俺にはお前の言葉の方が意味わかんねぇよ』
『なんじぇワシだけ地元言葉なんかぁ不思議じゃー。おまんらもあちこちの地方の奴らじゃろ』
 和泉は陸奥を見つめて何度かまばたきした。
 真実を理解しているとは言えないが、そのために歌仙が苦労していることだけは和泉にもわかった気がしたのだ。そして、遠征で歌仙の後をつけて寝所を覗き、次郎の危惧が真実であることを知った。
 和泉とて女の子とそういうことをするのは日常茶飯事だ。子供の頃からもてていたし、飾り物や服すら、いくらでも貰っていた。畑仕事に金刺繍の絹なんか着て来るな! と皆に言われるが、本当に腐るほど貰っているのだ。胸の鳳凰の刺繍の形や絹の染め色が微妙に違うらしく、女の子たちは自分が上げた服を和泉が着てくれるととにかく喜ぶ。一人の女の子を大事にしたまえ、とは歌仙に言われていないので、誘われれば誰とでも寝た。だって気持ちいいのだから。肉を持って一番嬉しかったのは他人と寝た快感を味わえることだと言っても過言ではない。そのために内臓が必要だとはわかってはいる。
 いくら育っても老人になることは無いらしいが、この本丸に来たときはみな、付喪神は子供だ。その成長過程は、肉の体を持っている限り人間と類似しているらしいから性欲もあるのだ、と和泉は歌仙から聞いていた。審神者と会話ができるのは近侍だけなので、それが本当に審神者の言葉なのかどうか確認する術は和泉に無い。
『だから、君が今、したい盛りなのは当然だから。子供は生まれないそうだし、相手をかわいく思うのならば女の子と遊んでおいで』
 そんなことを随分以前に言われている。人間の年齢で言うと和泉は一九才(現代だと一七才)なのだとか。
 だから、歌仙がそこで『ナニ』をしていたのかはわかってしまった。ただ、男同士でどうしているのか、がはっきりわからないだけだ。
 だって男には穴は一つしかねーんだから……えーっ! というところで考えることを拒否してしまっている。歌仙が実は、胸がぺったんこの女かも、という疑問も生まれてしまった。遠征先で温泉に一緒に入ったことはあるから、外見が男の体をしているのは見ているのだ。
 ただ、和泉は歌仙の言葉を何度も思い返す。
『相手をかわいく思うのならば女の子と遊んでおいで』
 そう、言っていた。ならば、歌仙はあの肥え太ったり、老人だったりする彼らを、『かわいく』思っているのだろうか? と。
 それが、和泉には理解しきれない『金のために我慢している』のならば、和泉は黙っていられなかった。そして、問い詰めて、喉を突かれて、問い返されて、こんな壁の端で歌仙を前にして呻いているのだ。
「軍を維持する費用は本丸から出ているよ」
「嘘つけっ! そんな金、本丸にねぇってみんなわかってるよ!」
 早速嘘をつかれて和泉はいきり立った。今までまったく興味が無かった自分がはずかしいとさえ思う。
「みんなとは、誰のことだね?」
「話しそらすんじゃねぇっ!」
 相変わらず、自分が猛ってもひょうひょうとしている歌仙に、和泉は頭の中を爪でがりがりと引っかかれているかのような不快感を覚えた。
「君が仕掛けて来た話なのだから、質問にまず応えたまえ」
 あくまでもふわりとどこかを見ている歌仙に、和泉はどんどんと熱が上がっていく。
「短刀達がそういうことを気にするわけがない。新参がそこまで気をまわすなら、次郎と……陸奥守、だろう? 君の言う『みんな』とは、誰と誰のことだね?」
「…………次郎と陸奥と薬研だよっ!」
 ああ、薬研もか……と、歌仙がくちびるの内側で呟くのを、和泉は苦々しく睨み付けた。
「その三人が、君の言う『みんな』かね? 本丸の中の、一二分の一が、君の中の『みんな』なのかね」
 ギジッ……と、和泉の歯が軋む音を立てたのと、彼の大きな手のひらが白壁に轟音を響かせたのは、同時。だが、その衝撃さえ、歌仙の紅蓮色の髪を靡かせただけだった。
「俺の認識が甘いのは認めるさ。悪かったな。詫びてやるよ。
 次はお前の番だ、歌仙。なぜ、そんなことを、した?」
「昔は私のことを歌仙様、と呼んでいたのに……いつからそんな居丈高な口を聞くようになったのだろうね」
「お前を好きだ、って気づいたときからだ」
 瑠璃の瞳が歌仙の碧玉を睨み付ける。
 逡巡も無い初めての告白。けれど、それは一切の甘い色を持ってはいなかった。
「さっき聞いてきたな? お前のことをなぜ俺が知りたがるのかと。
 俺が、お前を好きだからだ。
 だからお前のことを知りたかった。だが、手紙の相手や審神者のことはお前のことじゃなかったから、聞きたいと思わなかった。
 俺は、お前を、好きなんだ。歌仙」
 まるで一騎討ちの名乗りを上げるかのように、睨み付けてくる、和泉。そこには歌仙に許諾を求める色がまったくない。
 その『好き』は色恋ではないのだろう、と歌仙は思った。
「お前を守れる男になる」
 先程の激情がまったく消えたことで、逆に歌仙の体はわずかに震えを走らせる。
「そう思って、この、わけのわからない今生を生きてきた」
 和泉の真の怒りは、いつも、とても、静かだ。
「お前は俺よりもっといろんなことを知ってて、とてもじゃないけど追いつけなくて、お前を守れないことにさんざん泣いてきた」
「君はよく泣く」
 また、壁が轟音を立てる。
「お前が、泣かせてんだよ」
 くちびるが触れそうな距離で睨み付けられ、歌仙は瞳を伏せた。
「お前がそうやってっ、俺の言うことから目を逸らすからっ!
 俺をっ、お前を守るための壁だと認識しないからっ!
 俺は、お前を守ることができなくてっ、お前一人傷ついてっ!
 お前だけがこの本丸で、手入れもできない傷を抱えて呻いてるのを見てなきゃいけなくなってんだろっ!」
 和泉の額が歌仙の胸に押しつけられ、歌仙の帯が濡れていく。射干玉の髪が血の色の衣から離れ、海に恋するように揺れ落ちた。絹糸のようなそれに、歌仙はするりと白い指先を絡ませる。
 愛し児の涙に心痛んで蒼天を見上げた。そしてまた、自分を見ないと泣かれるのだ。
 笑顔なら見ているよ、と、歌仙は伝えたことが無い。和泉が誰かに向けて笑っているのを歌仙はよく見ているのに、歌仙がいることに気づいて和泉が彼を見ると、歌仙は『笑顔が終わった』から自分の行動に移る。その『自分を見ていない歌仙』だけを和泉は見てきたのだった。
「暗殺したいなら狸じゃなく俺に言え!」
 同田貫正国に、歌仙が暗殺の依頼をしていたと、和泉が知ったのは最近の話だ。それで一〇〇両単位の金子が入手できるらしい。歌仙以外が行く遠征の、何倍もの金額だ。
「君は目立つ。暗殺は無理だよ」
「金がほしいなら、あの城陥として全財産ふんだっくって来い、って俺に言え!」
「そんなことを審神者が許す筈が無い」
 その時代の、人間との争いは禁じられているのだ。
「じゃあお前が金のために身をひさぐのは許されてるのかよ!」
 やっと本題に入れた、と和泉は内心喜んだ。いつでも、ここに至る前に、歌仙に言いくるめられて撤退することが多い。
 歌仙は、嘘をつくことは基本的に無いが、真実を全部言ってくれるわけではないのだ。
 烏は白くない。馬は飛べない。それらは真実だが、烏の多くは黒い、馬の多くは走るのが速い、とは言ってくれない。もともと話術があるわけでもない和泉が、歌仙から真実を聞き出すのは至難の業だ。いつのまにか話を逸らされて、別のことで納得してニコニコとその場を去ることが多い。数日して『本題答えてもらってねぇ!』と気づいてまた話を逸らされて……の繰り返しだ。一つのことを問いただすのに一年以上かかったこともあるし、元の質問を忘れてしまったことも多い。
 なんでもないことはすぐに教えてくれる。だから、話を逸らされるということは、重大事に関わることなのだ。もともとが、今の自分の質問が軽いことだとは和泉も考えてはいない。だから、最初から肝を据えていた。人払いもした。
 最初に壁に手を着いたときに、指先をこすって皮膚を裂き、壁に自分の血をつけたのだ。
 絶対に、この質問は答えを聞き出す! と、血判を捺すかのように。歌仙にはぐらかせれても、指先の痛みが元の質問を思い出させてくれた。
「どうせ刀ではないかね。肉が与えられたとは言え、何も未練は無い。有意義に使った方が理に適っているだろう?」
「ならっ、俺がお前抱きたいっつっても抱かせてくれるのかよっ!」
「君がしたいのならば、かまわないよ」
 歌仙の言葉は、言い終わる前に血をほとばしらせた。
 刀を持っては一〇人一薙ぎにする長い腕で頬を張り倒されたのだ。
 歌仙は少し咳込みながら、服につかないように血を地面に吐き捨てた。その額の傍の壁に、和泉の左手が突きたてられている。後ろは壁の隅。目の前には和泉。獅子脅しが澄んだ音を立てる中、歌仙は牢獄にいるかのようだった。
 愛おしい、監獄だ。
「俺たちは審神者に呼び出された付喪神だとお前に言われた……それを否定するものも、肯定するものも、俺にはねぇ。この世界の意味はあまりわかって、ねぇ…………他の奴らで、あの、顔を隠している審神者を神聖視してるやつがずいぶんいるけど、その意味も、俺にはわからねぇ……」
 また、額を歌仙の胸に押しつけたまま、震えだす、和泉。その肩を抱こうとして上げられ、また壁に戻った白い指を、強く目をつぶっていた彼は見られなかった。
「お前がいたから……歌仙…………」
 震える、声。
「今生に生み出された子供の俺に、お前が微笑んで頭を撫でてくれたから…………」
 壁についていた手が、歌仙の両肩を掴む。
 普段はあんなに体温が高いのに、白壁に熱を吸い取られたそれは歌仙を震わせた。
「お前だけが、俺の主なんだ…………歌仙……」
 滂沱と濡れている瑠璃玉に見つめられて、歌仙は微笑んだ。
「笑うなっ!」
 本当に、その目で見てくれたことが嬉しくて笑ってしまうのに、怒られて、歌仙は目を閉じる。
「お前は……俺には触れてくれないのに、俺の髪には触るよな?
 だから、お前が触ってくれた髪を切りたくなくてここまで延ばしちまった」
「君の髪は、好きだよ……とても雅びだ」
「俺は?」
「君の顔も好きだよ。美しい」
「俺の声は?」
「すがすがしくて良いね」
「俺のこと、好き?」
「ああ。好きだよ、和泉」
 泣いた烏がもう笑った、というように、和泉が顔をほころばせる。その大噴気が消えたことで、本丸のみなも安堵の息をついた。ようやく、空が晴れていたことに気づいてめいめいが騒ぎだす。
「ああいうの、好きなやつとすることだよな?」
「人間は、そうらしいね」
「なんでお前は誰とでもできるの?」
「誰とでも……では、ないよ」
「俺とでもできるって言っただろ?」
「君のことは好きだから」
「あの爺たちも好きなの? 俺と同じぐらい好きなの?」
 人斬り太刀の大噴気は、子供の問いかけに替わっていた。
 歌仙が初めて和泉に会ったとき、彼は五才の幼児の姿をしていたのだ。
 最近の新参は、一軍が頑張っていることから、裏で鍛練をしているのは当然だが、遊んでいる者も多い。だが、当初から一軍で歌仙の背中を守っていた彼は、人間で言う『子供時代』を過ごしてはいなかった。血しぶきで彩られ、今後もそれがやむことは無いだろう今生だ。
 だがそれは、歌仙の元に集うた刀達はみな同じ。童の姿で現れ、すくすくと成長していく。歌仙だけが最初から、大人の姿で今生に生を受けた。
 もう殆ど成長しない体で、存在している、歌仙。爪を、数年に一度切る。そんな成長。
 最初に短刀達と戦場を回っていたために子供扱いが巧くなっただけだ。短刀四人と和泉で戦場を駆け回った。
 歌仙もまた、子供であることを許されない子供であったのだと、和泉は知らない。
 和泉が会った最初から、歌仙はすでに仰ぎ見るほどに巨大な経験を詰んだ大丈夫(だいじょうぶ 強く立派な男)だったのだから。
「君と同じぐらい好きな者は、今生ではいないよ」
「前は誰が好きだったの?」
「忠興様が好きだよ。主だったからね」
「今でも?」
 歌仙は、一度まばたきをして、和泉を見つめた。
 歌仙は決して、自分の進行方向を曲げない。殆どは歌仙が歩いているところに声を掛けるから、前を向いている歌仙から流し目を受けることになる。他人を呼び寄せることはあっても、自分が歩み寄ることは無い。横から話しかけてきた者に向かって、顔を向けてくれることはあるが、足元からそちらを向くことも、無い。
 部屋で書き物をする時は、目の前の障子を引いて、そこに机を出して座している。右の障子は大体全部開いているために、みなそこから出入りして歌仙と話をする。だから、机に向かっての正座を崩さない歌仙は、話を開いてはくれても、顔を見てくれることは少ない。
 和泉は何度か、その目の前の障子を開けて歌仙の前に座って話しかけたことがあるが、その時は一度も、歌仙は顔を上げてくれることさえ無かった。横から声を掛ければ、たまに振り返ってはくれるのに。
 外見はなよやかに見えるし、荒事は一切しないけれど、強情で辛辣で唯我独尊のその性。
 滅多に真正面から見てくれることの無いその瞳に、和泉は高くなる鼓動を押さえられなかった。
 真正面から見る歌仙が、一番美しいのは間違いないのだ。
 だが、和泉は、男の歌仙を前に、その興奮をどうしていいのかもわからない。
「審神者は好きじゃないの?」
「……君ほどでは、ないね」
「じゃあ、俺と一緒? 審神者が一番じゃないの?」
「……そうだね。審神者は、一番好きな存在では、無いね」
「ならどうして?」
 子供の疑問はきりがない。だが、今は誰に急かされているわけでも無い。それに付き合う辛抱強さを、歌仙は持っていた。
 他の者ならば切り上げたかもしれないが、和泉のことだから。和泉の、言うことだから、歌仙も聞きたいのだ。そのすべてを。
「どうして、近侍をやめないの?」
 子供の質問は、残酷だ。
「近侍を辞めてどうするのだね? 他の近侍の下につけと?」
「この世界じゃもう、歴史を変えられねぇ。今から作ることはできねぇ。つまりは、天下統一に名乗りを上げることもできねぇ。
 なら、なんでお前はこの軍隊を維持してるんだ? 審神者が好きじゃないのなら、審神者に任せて出奔すればいい」
「『今の審神者』は軍事に明るくない。僕がいなければ、編成を決めることもできないよ」
「審神者が好きじゃないなら、審神者の心配しなくていいだろ? お前、万人に優しいわけじゃねぇのに、そんな言い訳通ると思ってんのか?」
 和泉の時代でも『民主主義』などというものは無かった。上意下達が絶対のこの時代に、最高権力者である審神者の命令を聞かない、という信条は、殆どの刀に無いだろう。賢人でも俊敏でも愚鈍でも、主は主なのだ。その袂を分かつことは、人でなし、ならず者、理の通らぬ者として人の道から外され、後ろ指をさされる。
「審神者から離れれば、僕たちは存在できなくなるらしいよ?」
「誰も確認してねぇんだろ? はったりかもしれねぇ」
 歌仙は目を見開いた。
 これが、歌仙にして和泉を下に置けない理由の一つなのだ。
 とんでもないところから答えを引っ張ってくる。
 歌仙は自分のことを秀才だとは理解している。勉強をして、鍛練をしてここまで来た。だが和泉は、何も知らないのに、突然歌仙の見ず知らずのところから答えを引っ張ってくる、歌仙が鍛練しているのに、歌仙より強くなりつつある、いわゆる『天才』だった。『知識』が無いし、勢いが強いので智将とは誰も見ないだけだ。その上で、この軍では歌仙の次に強い。だから、自分に何かあったときのために、と歌仙は和泉に近侍の仕事を少しずつ教えてはいた。だが、和泉は審神者と会いたがらないので、会う場所を知っている、というだけだ。
 人の目を見て喋りたがる和泉は、顔を隠している審神者が、とにかく気に食わないらしい。すぐに俯いてしまう五虎退の顔をひっつかんでその目を覗き込み、何度泣かせたことか。
「消えるなら消えればいい。好きで復活したんじゃねぇよ。
 歴史変えられるのを止めるとか、誰か、刀の中でしたい奴がいるのか? 無理矢理起こされて、無理矢理仕事押しつけられて、怪我してんの俺たちじゃねぇかよ。なんで俺たちが審神者にそんな義理があるんだよ」
 いつも、和泉は、歌仙のほしい言葉を、くれる。
「お前が、誰も殺さなくていいところに、行こう」
 ふわり、とくちびるに触れられ、歌仙は和泉を仰ぎ見た。
 前にされたのは遠征先だ。
 歌仙は、泣いていた。
 今、泣いていた。
 また、泣いていた。
「消えるまで、手を繋いで歩こう」
 触れた額で和泉にささやかれる。
 歌仙の脳裏に、幼い頃の和泉の姿があった。一度も自分は手を引いたことなど無いのに、その小さな手を握って歩いている、自分。
 その子はもう、見上げるほど大きくなった。
 好きだの愛しているのではなく、ただ、手を繋いで歩こう、と。
「君は……本当に、綺麗だね………………和泉……」
 先程、金のために身を売っていた自分を責めたのに、それを汚いのなんのとは、考えていないのだ。
 ただ、『なぜか』と。
 彼は以前からそうだった。
 歌仙がどれだけ彼の目の前で不慮の血を流して見せても、歌仙の思うように処理してくれた。
 和泉に嫌われるかも……
 その心が、常に歌仙の中にはあったのだ。彼の純粋さに、自分の中の醜さを重ねて、あきれられるのではないかと、怯えて、いた。
 そのことこそが、和泉を見くびっているのだ、と歌仙は気づく。
 何があっても和泉は自分を愛してくれている。
 それを前提に生きてみよう。
 歌仙は、思った。
「手を、つないで…………どこまでも、行こう………………君と…………」
 微笑んでくれる愛し児の頭をそっとささえて、その額にくちびるで触れる。
「愛しているよ、和泉。この世の、誰よりも、何よりも……」
 深くくちびるを合わせて、大きな幼子を抱き締めた。
「私の夢が叶ったら、二人で、本丸を、出よう……」
 何度も口接け合う。手を握り締めて。指をからめあって。このまま、壁をすり抜けて行ってしまおうとでもいうように。
 こんなに、歌仙と触れあえることが初めてで、和泉は常軌を逸してしまっていた。背骨を折らんばかりに抱き締めて、顔中に口接けて、くちびるを吸って、もっと奥へとのめり込む。
 子供の頃に頭を撫でてくれた歌仙。
 二度目の、歌仙からの接触が、これなのだ。
 息が切れて二人で噎せて、互いの涙を袂で拭って、額をおしつけてくすくす笑って、そのくちびるを互いについばんだ。
 なんて楽しい、愛おしい、時間。
 二人の間に永遠が溢れたかのよう。
「初めて……お前に俺の言葉が通った気がする……」
 一つになってしまえばいいのに、と和泉が歌仙を抱き締める。歌仙も同じ強さで抱き締め返す。その熱が背中に心地よくて、和泉は笑いがとまらなくなった。
 『歌仙の熱』など、初めて感じたのだ。
 歌仙は氷のように冷たいのではないかと、思っていたことに気づく。同じ付喪神という存在なのだから、自分が熱ければ歌仙も熱いのに、別の存在だと感じていた。
 あまりに、歌仙が、綺麗だから。
「人間の体になって、良かったぁ……」
 首筋まで舐めながらささやかれて、歌仙が肩を竦めて笑う。
「刀のときは熱くなりようがなかったもんな」
 抱き締める腕も無いしっ! と、もっと強く歌仙を抱き締めて抱き上げて、ワーッ、とその辺りを駆け回る。
 池のほとりの大石に歌仙を座らせて、開いた隙間に自分も尻をねじ込む。吹っ飛ばされそうになった歌仙の腰を抱き寄せて、横からギュッと抱き締めた。腕が寂しくて、歌仙を膝に抱き上げる。右に左に振り回された歌仙は、髪も乱れ、息さえも荒くなっていた。
「君はもう…………私は旋風に舞い上げられた枯れ葉の気分だよ」
「もう振り回さないーっ! 落ち着いたぜ俺!」
 にぎにぎと、歌仙の体をあたためながらその赤いくちびるにささやく。
「お前の夢……って、聞いていい?」
 ここで、部屋に戻って組み敷きたい、などと言わない和泉に、歌仙は本当に和んだ。
 嫌いな者にしか抱かれなかった。
 愛する和泉にそれをされるのが、怖かったのだ。
 何も、感じなかったらどうしよう。
 それでも、愛し続けることができるだろうか?
 そんなことが、馬鹿馬鹿しい杞憂だったと実感する。
 和泉は決して『抱きたいから』好きだと言っているわけではないのだった。
 歌仙が歌仙だから、好きなのだ。
「そうだね、君にだけ、教えて上げよう。私が、審神者を殺さないでいる理由を」
 思うさま、歌仙の頬や耳たぶやくちびるを堪能していた和泉が体を硬くした。
 いつでも、歌仙は和泉より巨(おお)きい。
 いつでも、とんでもないことを言われて東奔西走するのが和泉なのだ。
 いつでも……
 普段でもいろいろなことを考えている歌仙のその『夢』は、やはり、和泉の慮外だった。
「忠興様を、滅す、こと」
 だよ、……と、耳を噛まれて囁かれる。
 くすぐったくて、うひゃひゃっと騒ぎたいのに、滑り込んでくる声がざらざらと和泉の脳を不愉快に揺らした。
 やはり、とんでもないことを、望んでいた、歌仙。
「忠興様が僕をお使いになる前に弑し奉ることができれば、僕は、血を知らない刀で、いられただろう」
 和泉は、抱き締めていたた体を少し離して、その白い顔を覗きこむ。いつもならふんわりと視線を逸らされたのに、その碧玉は真っ直ぐに和泉を見つめていた。
「僕は…………ただの美術品で、居たかった……」
 この軍団一の猛将の、これが、願い。 
「刃として生まれたからにはナニカを切らないと本願を果たせない、とは、僕は、思わない」
 長い指で髪を味わわれ、和泉は意識が散逸していく。
「そこに飾られているだけで褒めそやされるもので、ありたかった……」
 大名達の所持刀にはそういうものもたくさんあるのに、なぜ僕はそうなれなかったんだろう……と、嘆く、和泉の『世界』。
「『歌仙』などという名前…………いらなかった……」
 なんて綺麗な名前だろう、と初めて会ったときに和泉は思ったのに。それすらも嫌悪の対象だったなどと。ではなんと呼べば良いのだろうか?
「俺が歌仙って呼ぶのも、イヤ?」
「君が呼んでくれるから、まだ耐えられたのだよ」
 キュッ、と。後頭部を撫でられて和泉はふにゃっとその胸に溶けた。
「優しく発せられる君の音声は、雅びだ」
 うっとりと、顔を撫でながら囁いてくれる和泉の想い人。
「君が居たから、この十年あまり、耐えられた……有り難いことだよ、本当に、君の存在に、助けられた」
 意志の無い刀だから、どんな名付けをされようと拒否できないし、嫌悪も無かったのに。付喪神として下ろされて、歌仙の最初の嘆きはその名だったのだ。笑い話にできるぐらいには慣れたけれど、歓迎できない、名前だった。
『カセンチャマ?』
 幼い和泉が舌足らずに呼んでくれた。あの『音』のかわいらしかったこと、美しかったこと。
 『兼定』と呼ばれると思ったのに、和泉も兼定だから。同族だから。
 その幼いくちびるから発されたその音は、なんと雅びなことか。
 私の名前は、綺麗な音韻だな、と、歌仙は初めて思えたのだ。
「それにしちゃ……俺の扱い酷くない?」
 くちびるを尖らせる和泉に、歌仙はクスクスと笑う。
「だから、優しく発せられる君の音声、と説明しているよね。君の大声は天守閣にまで聞こえる。傍で発されると、頭が割れそうだよ」
 俺、いつも、歌仙歌仙っ! って喚いてたよな、と和泉も自戒した。
「どんどん、移動できる時代が増えている。そのうち、あの時代にも飛べるだろう。そのために、私は近侍として、本丸を、守っているのだよ。
 過去に行く能力を審神者から入手できるなら、審神者など、今すぐ居なくなって、いい」
 さらっと前の話しに戻してくる歌仙。彼の話の展開に、和泉はいつも振り回される。けれど、今回は、全部の質問に的確に答えてもらえたのだ。和泉はとても満足だった。
「でも、それしたら、審神者に逆らうことになるだろ?」
「だから、言っただろう?
 私の夢が叶ったら、二人で本丸を出よう、と」
「あ、そっか!」
 歌仙にクスクス笑われて、和泉もクスクス笑い返し、重大な事実に気づけなかった。

[newpage]

「和泉守って、静かだと本当にいい男だよねぇ」
 その日から、一転して騒がなくなった和泉に、本丸での人気は急上昇だった。
 今までも歌仙しか和泉を押さえ込むことはできなかったが、名実共に歌仙が和泉の鞘となってくれたのだ。
 むき身の刀が主を探して世を騒がすことは一切なくなった。審神者の前だろうと、戦場以外では歌仙にべったりくっついている長髪が諸所鬱陶しいぐらいだ。

 歌仙の夢が、叶おうとしていた。

[newpage]

「時間遡行軍が細川忠興殿を狙っているらしい」
 審神者の発表に、和泉はくちびるを噛みしめた。
 歌仙の夢がもうすぐ叶う!
 二人で本丸を出て行ける!
 和泉には、それしか、なかった。
 歌仙が殺したくないのならば自分も殺したくなど無いのだ。
 和泉には、土方に最後の最後で使われなかった残念な想いがある。
 刀の時代が終わった。
 その転換期に自分は生きていたのだから。
 主に添い遂げたい。
 その心が、くすぶっていたのだ。
 歌仙の夢が、和泉の夢だった。
 その夢が、叶うまでは。
 

[newpage]

 歌仙を第一軍隊長として、和泉たちは出撃した。
 だが、どこにも時間遡行軍は出なかったのだ。
 誤報かとみなが不思議顔をしている中、歌仙はゆっくりと辺りを見回していた。その視線に和泉も気づく。
 『時間遡行軍』は今、歌仙なのだ。
 審神者がそのことを知ってこの時代に来たことはあり得ない。それは歌仙の想いを遂げさせることになるのだから。
 歌仙の想いが岩をも通したのだろう、と和泉は感じた。
「私は、嘘つきだからね」
 そう言って、歌仙が笑ったから。どうにか歌仙が審神者を騙したのだろうと和泉は思ったのだ。
 だからこそ、野営の陣から歌仙が抜け出したのを、追えた。
 まだ五才の忠興を屠ることは簡単なことだ。
 その時点で歴史は変わった。
 財政に窮した細川家は二代兼定を、戦とは縁の無い大名に売り渡し、そこでその兼定は奥座敷の床の間に鎮座し、後に朝廷に献上され、誰にも『使われることの無い』まま、『現代』では美術館に安置される刀となったのだ。
「やったな歌仙っ!」
 和泉が、夢叶った想い人の肩を抱こうとしたその瞬間、指は空を切った。
 今、ここに歌仙がいたのに?
 その手を見つめて、和泉は眉を寄せる。まわりに、付喪神は、いない。
 歌仙がいなくなった。
 そこに、二代目兼定はあるのに?
 その時、和泉は気づいた。
 この『兼定』は二代目兼定ではあるが、この時点では『歌仙』ではない。そして、忠興の手から離れるから、その後も『歌仙』の名前はつかないのだ。
「え? 『俺の歌仙』は……どこ行った?」
 混乱しながらも、和泉は野営地に戻り、朝方、歌仙がいないと慌てる自軍をまとめて帰還する。
「とにかく、任務も失敗してるし、審神者に話を聞かないことにはわけがわからないだろうっ! 黙ってついて来いっ! 一番焦ってるのは俺だっ!」
 副隊長でもあり、失踪者の恋人である和泉にそういわれては他の者が文句を言えるわけもない。
 しかも、その帰還道中で、黒い髪の『二代目兼定』が参画してきた。
「僕は二代目兼定。歴代兼定でも随一と誉れ高いことだよね。之定と呼んでくれていいよ。ああ、同族がいるのかい? これは心強いね」
 『之定』は、和泉に笑いかけた。
 あの、歌仙と同じ顔、同じ声、同じしぐさで、『之定』を名乗ったのだ。
 黒く長い髪で。
 子供の、顔で。
『私は、嘘つきだからね』
 子供の之定を前にした和泉の頭に、歌仙の言葉が蘇る。
 あれは、ナニに対しての嘘だった?
 和泉は、審神者を騙すための嘘だと、考えた。
 違うのだ。
 違ったのだ。
『私の夢が叶ったら、二人で本丸を出よう』
 あの、言葉が嘘だったのだ。
 歌仙の夢が叶ったら、歌仙はいなくなってしまうのだから。
 歌仙が、気づかないわけは無いだろう。
 わかっていて、実行したのだ。
 自分が消えることを、知っていて、ついてくる和泉を連れて行ったのだ。
 和泉は知らなかった。
 気づけなかった。
 歌仙は、愛していると言った和泉に、綺麗に、嘘をついた。
『愛しているよ、和泉。この世の、誰よりも、何よりも……』
 あの言葉が、嘘だったのだ。
 自分がいなくなることで和泉がどれだけ悲しむかなど、そこには関係ない。
 最初から、しないとわかっていて、和泉とあんな約束をしたのだ。
『私の夢が叶ったら、二人で本丸を出よう』
 命を賭けた、和泉との、約束だったのに……
 和泉は、歌仙となら死んでもいいと思ったのに……
 二人で、共に死ねるのだと思ったのに……
 和泉の悲鳴は、城を揺るがせた。
 数年ぶりに聞いた和泉の大音声に、みなは自分の胸が痛んだ。
 歌仙の部屋で延々と泣いている和泉に、誰も声をかけられない。
 歴史を守るために存在するこの本丸の者たちは、『変わる前の歴史』を忘れられないのだ。
 知らないのは今から来る刀達。
 それと、之定、だった。
 歌仙の消滅と入れ違いに参画した之定には、歌仙の記憶が、無い。
 和泉の目から血が溢れたころ、飲まず食わずだった彼は意識を失い、手当てをされて床に横たえられた。
 目に包帯をしている和泉は、起きているのか寝ているのかもわからない。床ずれができても動かない彼を、皆が心配して部屋に詰めていた。
「イの字。起きとるんじゃろ? おんしが飛び起きる事態が勃発したぜよ」
 陸奥が包帯のある和泉の頭を撫でる。彼も、古参の一人なのだ。
「ワシら、これから、あの歌仙殿討伐部隊になるんじゃと」
 和泉は動かない。
「わからんかぁ? 和泉の。ワシらが歴史守らにゃぁならんから、歴史を変えた歌仙殿を、歴史を変える前まで戻って消滅させることになったんきに」
「え?」
 本当に、和泉が跳ね起きた。
 まわりにいた短刀達は一瞬喜んだが、黙り込む。
「歌仙を討伐っ! ナニ?」
 馬鹿なことを、と怒鳴ろうとした和泉は、包帯で眼球をこすられて、無理矢理それを取った、かすむ視界で、陸奥が滂沱と涙を流しているのに、言葉をなくす。
「ワシらがぁ…………あの歌仙殿…………討伐………………やて…………」
 ぐしゃぐしゃと顔を歪めて和泉を見つめるそれは、鉄が赤く錆びた色をしていた。
「和泉の………………………………なんかワシぃ、わけわからんくなっちゅー………………」
 思わず、和泉は自分の悲しみより陸奥を抱き締めて、その背中を、頭を撫でた。
 歌仙がいなくなって悲しいのは自分だけではなかったのだ。
 付喪神はみな子供の姿で現れる。
 全員、歌仙に育てられたのだ。
 みな、歌仙が消滅して悲しいのだ。
 そのことに、和泉はようやく気づいた。
「ごめん………………俺ばっかり、一人で悲しんでて………………ごめん…………ごめんな……ごめん…………陸奥……」
 大男二人で泣いているのを、短刀達が寄ってきて撫でてくれた。その彼らも、その大きな腕で抱き締めて、和泉も陸奥も泣き崩れる。
「之定見てたら、わかるきぃ…………歌仙様がなんじぇこんなことしたのか、わかるきぃ………………責めることもできん………………あんお人、文系文系言うてたんこのことやったん………『歌仙』の名前が、あんお人には邪魔やったんぜよ……」
 的を射ている陸奥の言葉に、和泉は頷くしかできない。
 和泉は之定の挨拶を聞いただけだ。歌仙の望みを知っていたから、彼の外見ですべてわかってしまった。けれど、之定を長く見ていれば、古参の者たちにはわかったのだろう。
 ぽんぽんと頭を叩かれて、和泉は顔を上げた。
「おんし、ヒドイ顔しちょるきぃ鏡見ちゅーが」
 短刀が手鏡を持ってきてくれたので覗き込んだ和泉は、咄嗟にその鏡を投げ捨てた。
 げっそりとやつれて幽鬼のようなのは、手の甲が骨張っていたのでわかっていたが、白目が血の色に染まっていたのだ。己こそが検非違使の幽鬼ではないかと、吐きそうだった。
「怖かろ? おんしが鬼じゃっちゅーても信じる顔しちょるきぃ、治るまで目ぇ伏せとくんぜよ?」
 和泉は頷いて、黒い紗を帯状にして持ってこさせた。審神者もずっとそうしていて、顔が見えないのだ。だからこそ、和泉は、顔も見えない審神者を尊敬する気持ちも沸かなくて、主アルジ、と言っている者たちが信じられないのだった。
 その黒い紗を包帯のように目にまくと、和泉からは外が見えるが、まわりから和泉の目は見えない。
「審神者の視界ってこんななんだな……」
「景色暗くて鬱陶しいじゃろけど、」
「どうせ、歌仙がいなきゃ、世界なんて白黒だ。かまやしねぇ。敵か味方かだけわかりゃいいんだよ」
 和泉が歌仙に初めて会ったあの幼いころ。歌仙以外は色あせていた。否、歌仙だけが、和泉の目に色づいて見えたのだ。乱が金色の髪をしているとか、自分が紅い服を来ているとか、わからなかった。それらはただ色あせて、白髪や、墨染めの衣に見えたのだ。
 まるで雪原かと見紛うような白黒の世界で、ただ一人、紅をまとう歌仙。
 誰が見ずにいられるだろうか。
 紫陽花のように揺れるあの髪が好きだった。若葉色のあの瞳が愛おしかった。それ以外は、和泉にはどうでもよいのだ。
 陸奥が頭を撫でてくれるが、和泉はもう、涙も出なかった。だから、すぐにこの目の色も治るだろうと思う。
 もう、悲しむ先も、無い。
 目の前には之定がいるのだから。

[newpage]

「ようやく出てきたか、和泉守。そなたが一番強いのだから、近侍をしてくれなければ困るのだが、陸奥に頼もうか?」
 審神者の声は本当に困っているようで、和泉は笑ってしまいそうになった。こんな声だったかな、と一瞬考えたが、どうでも良いことだ。近侍以外に姿をあまり見せない人だったのだから。
「『歌仙討伐』ではなく『歌仙を連れ戻す』命令でしたら拝受いたします」
 近侍など面倒くさいが、その命令を押し込めるのならば是が否も無い。
「説得、できるか?」
「命に賭けても」
 黒い紗の下で、紅玉の瞳が溶けていく。
 白い頬にしたたり、審神者を黙らせた。
「涙など、枯れたかと思いましたのに……」
 手のひらで拭った和泉は、それが黒く見えたので笑ってしまった。
 もう、和泉に色は見えない。
 たった一つの紅が消えたのから。
「涙は枯れても、血は流れてるんだな…………刀の癖に……」
 審神者と喋っている自分の口調が歌仙に似ている、と気づいて尚更笑える。
 穏やかになりたまえ、とよく歌仙に言われたが、もう、怒鳴る気力も無い。
 今の自分は『穏やか』だろうか?
 静かではあるだろうが、この赤い瞳は『穏やか』の範疇ではないだろう。
 鬼の瞳だ。
 歌仙が帰って来てくれたらすぐに治るだろう。
 そう思ってまた自嘲する。
 連れ戻したいのはやまやまだが、『あの歌仙』が、自分のしたいことを実行しているのを、邪魔させるだろうか。
 そして、歌仙に出会えた場合、『するな』と自分は言えるだろうか。
 歌仙の夢なのに?
 歌仙の夢は『之定』となって叶ったのに?
 審神者の部屋から出て、庭で遊んでいる子供たちを和泉は眺めた。
 石切丸と追い駆けあっている之定。
 黒い髪の之定。
 黒い、髪の、之定。
 和泉は歌仙が夜、井戸の傍で髪を梳っているのを見たことがあった。歌仙は取り立ててどういう顔をしていたわけでもなかったが、和泉は声を掛けそびれて、寝てしまったのだ。
 翌日の朝見に行くと、辺りは砂でかき消してあったけれど、青い染料が見えた。
 青い染料、髪を梳っていた歌仙。歌仙の髪は紫。之定の髪は黒い。
 和泉の中で、自分の黒髪を愛でていた歌仙を思い出す。
 『歌仙』となったときに、歌仙の髪は赤くなったのだろう。それを、青い染料で紫に見せているのだ。
 毛先が濃い色なのは、あれ以上延ばすと真紅が強くなって染まらないのだろう。
 雅びが好きなならば、自分の髪を延ばすのが一番雅びな筈だ。
 延ばせなかったのだ、歌仙は。
 血の色の髪だから。
 自分の名前が嫌いなのに、その由来で変わった髪を愛でられるわけがない。
 だから和泉の頭を撫でてくれたのだ。
 自分が憧れた、長い黒髪だから。
 和泉が長い髪を舞い上げてはしゃいでいるのを、目を細めて眺めていてくれた。よくその髪を飾ってくれた。あれは、自分がしたかったのだ。
 歌仙は、内番をするときに髪に飾り紐をつけていた。布巾でぱっとくくってしまってもいいのに、紅い飾りを、自分の髪につけたのだ。
 もっと、延ばしたかったことだろう。漆黒の髪を結い上げて、次郎のように飾りたかったのかもしれない。
 くったくの無い笑顔で、長い漆黒の髪を翻す和泉の姿が、歌仙が己に望む姿だっただろう。
「なんでそんなに………………お前一人、悲しいの…………? 歌仙……歌仙………………俺の……歌仙………………」
 和泉の瞳は、もっと白から逸脱して行った。
 もう、黒い紗で目を隠して数年。誰も和泉の笑顔を見たことはなく、新参の者は和泉の顔さえ知らない。
 すくすくと育つ之定。
 そして、その之定は、和泉を避けているようだった。和泉が伏せている間に参画した、石切丸や太郎太刀と常に一緒にいる。
 和泉を見る目は以前の碧玉と同じなのに、その中に蔑みの色を見つけて、和泉はまた吐きそうになった。
「なんで付喪神に内臓なんてあるんだよ……」
 呟いてから、その内臓があったおかげで歌仙と楽しめたことを思い出してくちびるを噛む。
 和泉は目に注目していて気づかなかったようだが、そうして噛みしめているせいか、和泉のくちびるは血を舐めたように真紅になっていた。たまに食いしばりすぎてかみ切ってしまい、いつもザラザラと荒れている。
 乱や次郎がくちびるに塗る膏を何度もくれたが和泉は受け取らなかった。
「別に、誰にくちびるで触れるわけでもねぇんだから」
 呟いて自分を嘲笑してしまう。
 歌仙がいたなら、そんなことを和泉は自分に許さなかった。歌仙に触れる自分の肌が荒れているのは極力回避したのだ。やわらかなあの肌に、自分の肌のささくれで白い筋が付き、そののち、紅い線となる。花びらを散らせるのは好きだったが、そういう『傷』は嫌だった。
 だが今は、誰に慮る必要もない。もともと大雑把な和泉は、そういうことに気を向けるのがそもそも面倒なのだ。
「くちびるが荒れたら痛いだろうって? 戦場で腕斬られる方が痛いだろ」
 そうとしか、思わなかった。
 そのくちびるから溢れるわずかな痛みは、歌仙をあの城壁に問い詰めたときの指の怪我を思い出す。
 初めて、歌仙と分かり合えた、あの日。
 歌仙と夜をともにしたのもあの日が最初だった。
『ああ……雅びな香りだね……』
 歌仙がそう言って微笑んでくれるから、着物に香も焚き締めたし、手指も清潔に保った。太刀の根元で爪を切っているといつも歌仙が微妙な顔をするが、器用だね、と笑ってくれるから気にしなかったのだ。
 威容を示すために着飾り、綺麗でいることはするが、その他のことはどうでもいい。元々が敵に対しての威容だから、戦場に居ないときは身なりなど気にしなかった。ただ、とにかくなんでも面倒くさいので、アクセサリなどはつけたらつけっぱなし。着飾りたいから本丸でもそれらをつけていたわけではなかったのだ。
 自分の体で大事なのは、よく歌仙が触ってくれた髪だけだった。座るときも畳に着かないように肩に掛ける。それは今も一緒だ。
  いっそのこと、丸坊主にしてしまえば、何もかも忘れられるだろうか、とさえ考えて苦笑する。
 忘れる?
 歌仙を?
 あの歌仙を、忘れる?
「歌仙を……忘れる? …………この俺が?」
 自分で呟いて、笑ってしまった。
 また涙が溢れたが、すぐに紅い絨毯に吸い込まれてしまい、和泉は気づかなかった。
 そんなことができたら、和泉はここまで強くもならなかったし、折れずに居たかどうかも危うい。
 審神者が好きではないから、すぐに出奔したかもしれない。
 歌仙が言うから鍛練をした。
 歌仙が言うから綺麗でいるように気をつけた。
 歌仙が言うから……
 歌仙がいたから……
 今生で和泉が意識を持ったその時から、歌仙は、居たのだ。
 けれど、それで言うと、陸奥も短刀太刀も、みな、一緒だ。
 近侍である歌仙は、付喪神が生まれて最初に会う刀なのだから。
「…………歌仙…………………………………………会いたい………………」
 和泉が願うのは、ただ、それだけだった。

[newpage]

 之定は、太郎太刀と似た長い黒髪をこれ見よがしに背に流し、たまに隊長も勤めるほどになった。
 堀川が手をかけてくれるのもあって、和泉の髪も艶々しい。之定より綺麗なのが、和泉の中で少しだけ溜飲の下がることだった。
 歌仙が望んだ己の髪より、和泉の髪の方が綺麗ならば、歌仙が黒髪だったとしても、歌仙は和泉を見てくれただろう。
 人間の青年期で成長が止まるらしい付喪神。和泉の髪は、歌仙と別れたころからそう伸びてはいない。
 まるで、歌仙がいないから時が止まったかのようで、和泉は少し、嬉しかった。
 自分の黒髪に、歌仙の白い指を見る。
 もう、瞳はマヒしてしまったのか、畳みに血が落ちるまで、泣いていることに気づかなくなってしまった。
 だからか、和泉の部屋は紅い絨毯をしかれている。枕も布団も紅い。そのせいで、自分が泣いていることを、余計に和泉はわからなくなった。堀川に顔を拭かれてようやく気づくが、悲しくて泣いているわけでも無いし、そうなったから何が変わるわけでもなく、心を動かされなくなっていく自分にたまに気づくが、それもどうでも良いのだった。
 歌仙が居たころは、あんなに毎日楽しかったのに……と、たまに思う。もう、十年が一日のよう。
 ある時、堀川がくすくすと笑いながら和泉の髪を梳いた。
「この前ね、兼さん。之定が僕に質問して来たんですよ。兼さんの髪があんなに艶々しているのは僕が何をしているのか、って」
 歌仙が自分の髪を自慢にしていたら聞きそうなことだな、と和泉は久々に笑った。堀川の前では、和泉は紗も着けないし、眼も開けている。
 ようやく見られた和泉の笑みに、堀川も大きなため息をつくほど安堵した。
 笑えなくなったわけではないのだ。ただ、心が動きにくくなっただけなのだろう。
 前より髪が伸びたので、長い部分を頭頂でくくって地面につかないようにしていた。
 黒いのに、艶々しくて豪奢な髪だ。
 日が経てば治るかと思われた和泉の白目は、いまだに血を含んでいる。新参の短刀がうっかり見てしまって腰を抜かしたのを、和泉の方が謝った。以前なら、勝手に見たお前が悪い、とでも怒鳴っていただろう。新参に、和泉は『とても穏やかな近侍』と思われている。
 穏やかなのではないのだ。荒ぶる心がもう、枯れはてているだけなのだから。

[newpage]

 この本丸は、和泉のまわりの古参と、之定を中心とする新刀に派閥が別れてしまっていた。
 なぜなら『歌仙を連れ戻す』ということは、『之定が消える』ということでもあるからだ。うっかりと口を滑らせることができないので、疎遠にならざるを得なかった。
 ただ、新刀たちは『歌仙』を知らないので、『歌仙を連れ戻す』と言っても、自分たちの知らない古参の誰かだろうと気にはしていなかった。
 歌仙は頭がいい。
 いろいろと手を変え品を変え、忠興を守ろうとする和泉たちの手をかい潜って忠興を何百回殺されただろう。
 殺されるたびに少し前に、少し前に時間移動するのがわかっているのか、歌仙も過去にさかのぼり、一度は、忠興の二代前の当主を殺して、細川家自体を潰したことがあった。
 歌仙が和泉に囁いた通り、審神者は軍事的にほぼ愚鈍と言ってもよく、和泉が歌仙を上回れる筈もなく、もう数十年、細川家のまわりで一行はうろうろしている。
 たまに、歌仙に会えてはいるのだ。
 和泉はあの夜、歌仙と二人で出撃したのだから侵入経路を知っている。それでも、十回に一度会えればいい方だ。そして、会えば会話をしてしまう、抱き締めてしまう。口を吸われたらもう終わりだった。
「愛しているよ、和泉」
 いつも、そう囁いてくれる歌仙。
 紫色の髪の歌仙。
 その一言を聞ければ、この先数年正気が保てる、と、和泉はいつも思った。
 自分が狂い掛けていることを、その一瞬だけ思い出す。世界は花色で埋めつくされる。
「俺の歌仙…………」
 瞳はもっと赤くなる。
「本当に僕と同じ顔なのだね。気持ち悪い」
 歌仙と同じ声が、和泉の後ろから、した。
 和泉は之定に後をつけられていたのだ。後ろでそう呟かれて振り返った瞬間、もう歌仙は消えていて、その時の出撃も忠興を守れず、和泉がさすがに切れた。
 之定がいなければ、あと一秒でも二秒でも、長く歌仙を見ていられたのに!
「てめぇっ! なんであそこで声を出したっ! もう少しで捕まえられるかもしれなかったのに!」
 帰還して手入れをしたあと、之定の部屋に和泉は抜き身を引っさげて踏み込んだ。咄嗟に之定は石切丸の袖を掴んだが、彼ら二人も、自分の数十倍の歴史を刻んだ付喪神の憤怒を真正面から受けて、腰が抜けてしまっている。辺りは陸奥の采配で人払いがされてしまった。
 『穏やかな近侍』であった和泉の、城を震わすような逆鱗。和泉が声を荒らげたことさえ見たことが無かった之定たち新刀に、その感情の荒波を受け止めることなどできるはずが無かった。
 まだ、之定は和泉に腕力で勝てるほど育ってはいない。之定よりあとに入った石切丸もそうだし、後にははるかに強くなるだろう太郎太刀も、和泉から見れば、幼子でしかない。
 私刑……いや、破壊になるかもしれない……と、陸奥を始め古参は思った。
 この数十年、歌仙が消えてから喋ることさえまれだった和泉が、以前以上に激怒している。以前の和泉でさえ、戦場以外で刀を抜いたことなど無かった。
 短刀達は次郎や薬研の元で泣き震える。彼らの兄たちにはすがれない。なぜなら、彼らも新刀だから『歌仙』を知らないのだ。震える自分がそのことを告げてしまえば『之定が消える』ということが知れ渡ってしまう。それは、和泉に逆らうことだ。
 あの、赤い瞳の和泉に逆らうことだ。
 そんな怖いことは、短刀達にできなかった。
 彼らはみな、歌仙がいなくなったときの和泉の、あの号泣を見ているのだ。
 もう、泣いて欲しくなかった。
 次に和泉が泣いたら、戻ってきてくれない気が、するから。
 古参達は初詣でいつも願う。
 『以前の』歌仙と和泉が戻ってきてくれますように、と。
 賑やかだった本丸に戻ってほしい、と願うのだ。
 兄たちも、弟達がなぜ自分の元で泣かないのかと心配だが、本丸全体の戒厳令の元、どうしようもない。
 すでに新刀は、和泉の顔さえ一度も見たことが無い者も多いのだ。なぜ顔を隠しているのか、という理由も、『歌仙-之定』に関連することだから、古参が喋ることもできない。
 そんな中、之定の部屋に暗雲が立ち込めていた。石切丸が失神寸前で失禁している。
「忍んでる奴を追ってるのに、他人に聞こえるぐらい声を出す馬鹿がどこにいる! あいつは気づいてなかったんだから、今回こそは捕まえられたのに!」
 抜き身を構えて足を踏みならす大近侍に、之定も腰が抜けていた。そこにいる二人に助けを求める精神のゆとりも無い。和泉から目が逸らせない。
 目を逸らしたら、その一瞬で自分が破壊されるのは、微塵にも揺るがないそのむき身の太刀が物語っていた。
 之定は、歌仙が望んだ通り、『人を斬ったことの無い刀』だ。命のやりとりをしたことが無い。
 戦場には出ているが、付喪神としてのそれと、本身で人を斬ったそれとは違う。
 歴史上の戦場に出たことのある和泉の迫力に、深窓の箱入りである之定が勝てる筈は無いのだ。
 けれど、彼にも国宝である意地がある。
 設えが良かったから『錆びずに残った』だけの人切り包丁に負ける気はなかった。
「では言わせて貰うが、和泉守っ!」
 さすが歌仙と同じ刀、と言えるだろう。和泉に対して、まだ、言い返せるその気力。
 だがそれは、幸運だっただろうか。
 『和泉、君はもう……』
 歌仙が名前を呼んでくれたときは苦笑と同時が多かった。『和泉守』という時は礼装の場だけだ。
 歌仙と同じ顔、同じ声でそう呼ばれたことで、和泉の精神は一気に振り切れた。ここに陸奥が居たなら体を張っても和泉を押さえてくれたかもしれない。
 だが、その陸奥さえ、私刑になるかもしれないと思っていながら人払いをした。
 之定の『自分は美術品である』という自尊心は、本丸でも度々物議をかもしたのだ。
『雅びを解せない人切り包丁風情が』
 それが、彼の隠れた口癖だったのだから。石切丸や太郎から何度も糺されているが、聞こえないところでは言っていることがわかる瞳で和泉派の刀達に鼻をそびやかす
 自分も神刀になるのだ、と、石切丸と日々念仏を唱えていた。
 精神は、鍛えられていただろう。
 今の、和泉の迫力がわからない程には。
 何事にも動じない太郎太刀ですら、畳みに突っ伏して動けなくなっているこの、城をも燃え上がらせるかのような和泉の激情が、之定にはわからないのだ。
「あなたは何度も歌仙に会っている!」
 陸奥でも口答えしないだろう、怒髪天を突いている和泉に、尚も言い募る。
「歌仙はあなたの念者(恋人)であろうっ! 毎回ほだされて、あなたが歌仙を見失っているのだ! 僕こそ言いたい! 我々や主の苦労をなんだと思っているのかとっ!」
 之定は自分の主張を終える前に、襖五枚分座敷の奥へと吹っ飛んだ。
 和泉の長い足で回し蹴りを喰らい、奥座敷に胃の内容物をまき散らす。なぜ刀の自分に内臓などというものがあるのかと審神者を恨んだ。
 まだ、和泉は手加減をしてくれていた。
 そうでなければ、之定は真っ二つに折れていただろう。
 赤い瞳の鬼が、之定の前でどんどん大きくなり、蹴り転がされて胸を踏みつけられる。
「ごふっ……がっ……ぁっっ! 雅びが足りないものはすぐ力に訴えるっ! 近侍だ、一番隊隊長だと言っても、おつむはその程度か和泉守兼定! 僕と同じ銘を冠していることを恥だと思え!」
「さすが文系、よく舌が回るぜ」
「あぐっ」
 口に拳を突っ込まれて舌を引っ張られ、之定の肩が浮いた。口から肩に、皮膚が引き裂けるかのような激痛が走る。
 そして、くちびるの先に太刀がひやりと据えられた。
「この舌をこのまま引っこ抜かれるのと、刀で斬られるの、どっちがいい?」
 静かな声だった。
 静かな視線だった。
 和泉は微笑んでさえ、いた。
 その、紅い瞳で。
 之定は、今初めて、和泉が顔の紗を取っている事に気づいた。
 わかっていたはずだった。
 先程『紅い鬼が来る』と思ったのだから。
 その赤い目に覗き込まれ、魂の底から震え上がって涙があふれる。
 こいつは化物だ……
 之定は思った。
 言葉が通じない化物だ……
 こんな化物に何かされるぐらいなら……
「おっとっ!」
 之定は、自分で刀に舌を押しつけて切ろうとした。
 自害を、しようとしたのだ。
 だが、反射神経で勝る和泉がそれを気づかないわけもない。
 和泉の太刀は畳みに突きたてられ、之定は顔を手のひらで押さえて口をふさがれた。押しつけられる後頭部に激痛が走るが、赤い目がそんなものを感じさせない。
 この目が怖い。
 何より怖い。
 肉の体の痛みなど、もう、之定は感じなかった。
「死にたいなら、俺が真っ二つに割いてやるぜっ! 刀に内臓を作った審神者を恨めよなっ!」
 いつのまにかはだけられた下半身に楔を打ち込まれ、之定は一瞬気を失った。そして、立て続けの激痛に目覚め、暗転し、赤い闇に呑み込まれ続ける。
 僕は……神刀になる…………のに…………
 押さえつける腕に爪を立てるだけが、今できる之定の抵抗だった。それさえも、張り切った筋肉に爪が通らず、絹を掻きむしるだけだ。
「お前、俺の髪の艶が気に食わないらしいな?」
 髪を持って振り回され、之定は畳に激突する。
 振りあげられた和泉の拳に自分の黒髪が引っつかれまれて、居た。そこに太刀が振り切られている。
 自分の髪は長いが、和泉の腕のあの先まで届く筈が無い。
 軽い、頭。それを腕で探り、その喪失感に悲鳴を上げた。
「僕の髪っ! 髪っ! 切った! ……あぁっっぐぁっあっ! …………ひっぃっ……もっ……もうっやめってっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃっ!」
 赤い瞳が、之定の悲鳴に満面の笑みを浮かべて見せる。。
「痛いっ! 痛いよっ助けてっ! もう動かないでっ! やめてっ! 助けてぇ! 石切丸っ! 太郎っ! 助けてっ! 主様っ! この化物殺してっ! 助けてっ! もうだめっだめっ……僕っ……だめっ…………」
「ダメじゃないぜぇ? お前の中気持ちいい。俺に食らいついてくるぜ? なぁ、歌仙……お前ここが好きだっただろ?」
「ギャアアアアアァァァァァァァァッッッ!」
 部屋中の畳が赤いしぶきで汚れているその中を、熟練の者を相手にするように強く突き上げられ、ただ振り回される。
 舌を噛もうとした之定は、口に自分の刀の塚を突っ込まれ、噎せることもできずに悶絶した。
「お前を自殺させたら、俺が審神者から怒られるだろうがよっ! 今まで育ててやった恩を返してから逝けよなっ! 刀装ぼろぼろぼろぼろ溶かしやがってっ! くそ打刀がっ! そこまで強くさせるのにどんだけ面倒だったと思ってやがんだっ! 戦力になる間は死なせないぜっ! 俺に命を預けたんだからなっ!」
 之定は,畳に突きたてられた和泉の刀に手を延ばした。
 これで首を切れば死ねるのだ。
 この化物から離れられる。
 だが和泉もそれはわかっていた。
 指が届くけれど抜けない場所で凌辱を続け、あざ笑い続ける。ザクザクと、之定の指が血を溢れさせた。むき身の刃にすがりついても、自分が傷つくだけだ。
「神刀か神刀か神刀かっ! こんなことされても神刀になれるのかっ? あっ? てめぇが人を斬らねぇのが自慢なら、俺は人を斬るのが自慢だっ! 国宝だろうが宝剣だろうがしるかよ! てめぇは経験の足りねぇ俺の部下でしかねーんだよっ! 笑えよ! 人切り包丁って笑えっ! アーハハハハハッッッッ! 代わりに俺が笑ってやるっ! すげぇっ楽しいっ! 数十年ぶりに笑った! アハハハハッッッ! ハハッ! お前は俺を楽しませてくれる天才だぜっ之定っ! あーもうかわいい、お前かわいい。もっとだもっと……」
 之定の口に突っ込んでいた刀を引き抜いて、和泉はその口に吸いついた。
「すっげぇ血の味がする。どこか切ったか? 歌仙?」
 優しく頭を撫でながら、殴打で晴れ上がっているその顔を舐め回す。
 手入れ部屋にも一緒に入られ、之定は全回復するのに三日かかった。
 

「おい、陸奥ーっ! むんむんムッちゃんっ! そこにいるだろっ!」
 手入れ部屋の様子を見に来た陸奥は、昔懐かしい呼び方をされて目を見開いた。
 まだ歌仙とそういう関係にもなっていなかったときの、あの激しく騒がしい和泉の口調なのだ。豪快に笑っていることがわかる、高い声。涙など微塵にも感じさせない張りのある音。
 古参全員が、思わず笑ってしまった。
「どないしたっちゃっ! イの字! 俺はここにいるぜよっ!」
「おうっ! 紫の染料持ってきてくれよっ! それと歌仙の服!」
「染料はええけど……」
 そろりと集まってきた短刀に、陸奥は染料を買ってくるように言づけて手入れ部屋に近づく。
「歌仙殿の服をどないするがよ?」
「馬鹿かお前、歌仙をここから裸で出せるわけねぇだろっ! 浴衣でもいいから早く! そろそろ手入れ終わるから!」
 昔の明るい和泉の声に一瞬喜んでいた陸奥は、奈落に落ちるかのような凍気に包まれた。
 石切丸や太郎達も駆けつけてくる。
 彼らはあの日、和泉が之定をつれて手入れ部屋にいくまでずっと、之定の部屋で凍りついていた。畳みに着いていた部分は褥瘡で皮膚が割れ、震え続けていたために全身の筋肉が硬直し、誰が被害者なのかとみなに疑われたものだ。
 ようやく歩けるようになったのだろう、青い顔の石切丸に陸奥はすがりつかれて視線を逸らす。彼らが言いたいことはわかっている。そんなことより陸奥は、和泉の動向が心配なのだった。
「…………一体、和泉守は何を考えてあのようなことを? 叱咤と言うにも酷すぎますっ!」
 普段のんびりしている石切丸が、陸奥を揺さぶり、涙ながらに訴える。
「なんとなく私たちにも歌仙という者と和泉守の関係はわかっています。之定が彼に似ているということも、けれど、していいことと悪いことがあるでしょうっ! なぜあなた方は彼を止めなかったのですかっ!」
「あいつを止めるがか?」
 陸奥は鼻で笑ってしまった。
「この本丸の、誰があの最凶近侍を止められるがかっ! ワシに壊れろっちゅーかワレっ!」
 和泉ほどではないにしても、この本丸で二位三位を争う陸奥にすごまれ、石切丸はその場にへなりと屑折れた。
 まだ、石切丸も太郎太刀も、和泉の、陸奥の経験値には追いついていない。あの時の和泉に、動くことすらできなかったのは自分たちだ。ずっと自戒していた。之定の悲鳴をただ、耳を塞いで震えるしか、できなかった。それを、陸奥に肩代わりさせようとした自分の言葉に、石切丸は身を切られるようだった。
 石切丸も太郎太刀も、『祓える魔』には強い。だが、和泉のアレは、『祓えない魔』だった。
 憑依は祓えるが、魔神そのものを祓うことなどできないのだから。石切丸が祓えるのは、『自分よりも弱い魔』たけだった。
 否、この世に、あの和泉を祓える者などいるわけがない。
 之定の態度が悪かったのは石切丸もわかっている。何度もいさめたが言葉が通らなかった。自業自得だと、あの部屋で震えているときは思わざるを得なかった。何もできない自分をかばうために、之定のせいにするしか無かったのだ。
 だが、あそこまでされることだっただろうかと、自責の念を禁じ得ない。自分は止められたか? 立ち上がれば止められたか? 和泉の最初の怒号だけで、腰が抜けた自分たちが、まだ反論できた之定より上だったか?
 弱い、ということは、罪なのだ。
 石切丸はそれを痛切に感じ、砂にまみれて泣き伏せる。
 陸奥も、何か言ってはやりたかった。
 将来的には自分よりはるかに強くなるだろう石切丸と太郎太刀だ。だが、その二人が、今から同じときを生きたとして、あの和泉を追い越せるか? 大軍団になった今でも、近侍として引くことをせず、一軍隊長を絶対に譲らない和泉が、弱くなるか?
 この戦国の世に、強さ以上の『正義』は無い。
 幕末を竜馬と生きた陸奥には、その弱肉強食論は笑い話だが、今は時代が違うのだ。
 刀同士ならば、金属の硬さが最上限の強さの筈だった。
 だが、付喪神として肉の体を手に入れ『神』として人間を超えたものになってしまった現在では、そこにある事実は『経験』でしかない。
 和泉は、自分が力でねじふせたいから、弱くなる気が無いのだ。
 和泉が弱くなる、ということは、近侍を退く、ということ。
 和泉が近侍を辞めるということは、 『歌仙を連れ戻す』ではなく、『歌仙討伐』に審神者の考えが変わる可能性が高い、ということだ。
 和泉は決して、威張りたいから強く有りたいわけではない。歌仙のために、自分が強い必要があるのだ。
 『歌仙のため』に動く和泉に、負けは、無い。
 負けは、無いのだ。
 『和泉の負け』は『歌仙の破壊』と同義なのだから。

[newpage]

 みなが集まっているそこに、手入れ部屋の戸が開いた。
「はーいっ! 手入れが終わってピッカピカの歌仙サマでーっす! なんだ、みんないるんだっ! どうよ、俺の歌仙、今日も美人さんだぜっ!」
 和泉の横には、歌仙の浴衣を着た、紫色の髪の之定が呆然と立っている。
 歌仙など、いない。
 いるはずもない。
 陸奥が騒いでいたから集まっていた古参の者たちは、呆然としながらも、拍手をした。そうすれば、和泉が喜ぶのを知っているからだ。囃されて、和泉は機嫌よさ気に腕を振りあげて笑った。
 新参の者は、手入れされきった之定に暴力の跡は見られないので意味がわからず、立ち尽くしている。
 石切丸がさらに腰を抜かし、太郎に支えられた。
「飯食いに行こうっ! 歌仙っ! なっ! 今日は歌仙の好物だといいなっ!」
 和泉が之定の肩を抱いて縁側を歩いていくのを全員で見送り、古参の短刀達がその場に泣き伏した。
「ナニ? 和泉どうなっちゃったっの? ねぇっナニアレっ!」
「僕たちが何かできることあったんじゃないですか? っ! なにかっ…………あんなになる前にっ!」
「あれ、之定だよねっ? 髪っ! 紫だったよっ? なんで、紫の染料入れてもあんな明るい色にならないでしょ? なんなのあれっ!」
 短刀達にすがりつかれて、陸奥も右手で顔を覆い、黙り込む。
 之定を私刑にしたのはわかっていたが、白髪になるまで追い込んだ和泉に、嘆息するしかない。
「い……和泉守が………………狂った……?」
 言ってはならないことを石切丸が口にした。
 それに古参の短刀達が石をぶつけだす。
「あんたのせいじゃないよっ! 之定にあんなこと言わせまくってたあんたたちのせいでしょっ!」
 とっさに太郎が背で石切丸をかばった。
「今回の出撃だって、之定がへましなかったら歌仙様捕まえられたかもしれなかったのにっ! 
 和泉は悪くないっ! この数十年ずっと耐えてたのにっ! 笑うことさえなかったのにっ! 今になってあんなっ……あんな笑い方っ!
 以前の和泉に戻るなんてっ! 之定が何したのよっ! 頑張ってた和泉に、引導渡したの之定でしょっ!」
「之定さんじゃ歌仙様の代わりになんてなれないのに……どうするの和泉さん……」
 明後日の方向に石を投げていた乱の目の前に太郎太刀が立ちふさがる。
 彼は、睨んだりは一切しなかったが、その巨体で自分の半分も無い者の目の前に立つというのは『黙れ』を意味するのだと誰にでもわかった。
「私たちはここに来て以来、『カセン』という者をとらまえるために切磋琢磨してきました」
 感情の読み取れない、深く静かな声だ。
「ですが、『歌仙様』とあなたがたが呼ぶような身分のかたであると、私は説明を聞いたことがありませぬ。新刀と古参の壁がそこにあるのだとわかってはいましたが、問う糸口もありませんでした。
 そこは、わかっていただきたい。
 和泉守が何をがんばっていらっしゃったのか、私たちは知らないのです」
 とつとつと訴えられて、短刀達も押し黙った。陸奥や次郎が大きなため息をつく。
 歌仙が消失したその時、之定が参画してきた。和泉は号泣し続けて用を成さず、本丸は上を下へとひっくり返っていたのだ。近侍がいなくなり、その代わりになれる者が部屋から出て来ないのだから。どうすれば審神者の部屋に行けるのかも、殆どの者は知らず、城中の戸を開けて回った。
 とにかく、和泉が落ち着くまでは、と新刀達に何も説明せず、そのまま、ずるずると数十年が過ぎてしまったのだ。
 新刀は新刀で、漏れ聞くところからなんとなく推測はできるけれど、問うて良い雰囲気になったことがなく、古参は古参で、新刀が来るとどんな話でもピタッとやめてしまう。今、自分たちは新刀に聞かれて良いことを話していただろうか、と、無意識に思ってしまうのだ。
 秘密を抱える、というのはそれほどに重たいものだった。
 古参がそれでもがんばれたのは、その秘密を知っているのが一人二人ではないからだ。今でも思い出したら泣いてしまう程の、あの、自分の刀身にひびが入りそうな和泉の悲嘆を、『古参は全員知っている』ということが、心の支えになっていた。
「とにかく、飯の時間じゃき。広間行こうぜよ」
 どんな時も努めて笑顔の陸奥に追い払われ、全員がとぼとぼとその場を後にする。
 みな、行きたくなかった。
 なぜなら、そこには、先に行った和泉たちがいるはずだからだ。
 今の二人を、誰も見たくは無かった。
「おうっ! 先にやってるぜっ!」
 入ってきた陸奥たちに和泉は軽く手を上げ、膳を掻き込んでいた。三日食べていないのだからそれは減っただろう勢いだ。
 金輪際離すものか、とばかりに、之定の右肘を自分の左肘で抱え込んでいる和泉。これが本当に歌仙と和泉ならなんてほほえましい光景だろう……と、古参達はため息をついた。以前は二人ともそんな感じだったのだ。歌仙はそんな和泉に戸惑っていたが、和泉がまったく隠す気が無いのがありありとわかったのと、一瞬で全員にバレてしまったのであきらめたらしい。
 ナニにも執着しなかった和泉の、たった一つの妄執が、歌仙一人の肩にかかっていた。
 大型犬は、膝に乗らないようにしつけなければならない。いくらかかわいい仔犬の時でも、膝に乗せて遊ばせていれば、巨体になっても乗り上げてきて膝を潰される。
 和泉の、歌仙に対する愛情もそんな感じで、最初に和泉を甘やかせた歌仙の失敗だったのだ。
 あの激情でもって、全身全霊を賭けて歌仙を愛した和泉。
 歌仙はまだ、器が広かった。和泉のワガママを甘やかせる手腕も余裕もあったのだ。実年齢としても、経験値としても、歌仙の方がはるかに上だったから。
 之定が耐えられんくなった時に、もう一波瀾あるぜよ……と、陸奥は次郎と目を見交わす。
 かつかつと箸を進めている和泉とは反対に、之定は茫として箸も持っていなかった。
「本当に歌仙様みたいだ……」
 短刀達がひそひそと囁き合う。
 元は同じ顔なので似ていて当然だった。和泉が切ったらしい髪がざんばらであること、色が青紫であることを覗いては。歌仙は、桃色に近い紫の髪だった。そんな微妙な色合いを、買ってきただけの染料で出せるはず無い。だからこその、わずかな差。
 カツカツ笑顔で食事をしている横で、たまに我慢が切れるのだろう滂沱と涙を流す之定。どうした歌仙? と和泉に伺われ、慌てて顔を拭く彼が、石切丸は不憫でならない。何かできないか、何か和泉に進言できないかと思うのだが、和泉の笑顔が恐ろしいし、之定が黙っているのでかばうこともできない。
 あれでいいはずが無い。だが、逃げてくれないと助けられないのだ。逃げた方が危険だと之定が考えているのならば、ここで石切丸が彼を連れて出た方が危ないのだから。
「なんだよ歌仙、全然食べてねぇじゃねーか。これ好物だったろ?」
 之定は、和泉に差し出された小鉢を見て、和泉を見て、もう一度小鉢を見て、どうにか箸を手にとった。だが、ギャグかと思うほど手が震えて、箸がぽろぽろと落ちてしまう。
「なんだ? また手を痛めたのか? また代筆とか言うなよなー。ほら、あーん」
 和泉の箸が小芋を突き刺して之定の口元に差し出される。之定の体が一瞬で硬直し、膳が跳ね上がって皿や料理が散乱した。それでも和泉はにっにこと之定にアーンを続けている。
 之定の目が、その箸の先端と和泉の手、和泉の顔を何度も往復する。
 そういうことを万座の中でされることが恥ずかしいのではない。あれだけ暴力を受けた男に、尖ったものの先端を突きつけられていることが純粋に怖いのだ。食いしばりすぎて歯茎から血が溢れるほどに。
 どうしても、之定は口を開けることができなかった。その背中を和泉に撫でられ、また跳び上がる。
「和泉守、しばし待たれよ」
 やっと声を掛けられた石切丸のそれを、之定の悲鳴が遮った。
「ごめんなさいっ、本当にごめんなさいっ! 僕の口が過ぎましたっ! 本当に許してくださいっ! もう許してくださいっ!」
 差し出され続ける『アーン』に、之定が怖ぞ気を振って後ずさり、土下座した。
 今までの居丈高さなど微塵にも無いその風情に、古参は目を逸らし、石切丸と太郎以外の新参は目を見張った。
「どうしたの歌仙? これ嫌いだったっけ? なんか、材料がどこそこで取ったものと違うとか、言う? じゃあこれはー?」
「本当に許してください。もう許してくださいっ! お願いですからっ!」
 『アーン』の箸を一端自分の口に突っ込んで、和泉はニコニコと之定を見た。
 その目に、之定は震え上がる。
『今日からお前が歌仙だ。愛してる……歌仙…………俺の歌仙……』
 和泉に殴り込まれたあの晩、否、もう明け方だっただろう。之定は、感覚の無くなった頬を舐められながらそう囁かれたのを思い出す。
 追捕されている罪人の代わりなど冗談ではなかったが、和泉の紅い目に微笑まれ、ガチガチ鳴る歯で、『否』を言えるわけが無い。コクコクと震えながら頷いた之定の頭を優しく撫でて笑う和泉に、ただ、之定は涙した。
 ここが大広間だと言うこともわからず、之定はただ、床に額を擦りつける。
「昨日教えたよな? 歌仙はそうじゃない、って」
「ひっ……」
 之定の、喉を引きつらせるような悲鳴と、陸奥たちの驚愕は同時だった。
 陸奥は咄嗟に石切丸や次郎達と顔を見合わせる。
 和泉は、狂ったわけではない。之定に、わかっていてコレをしているのだ。
 之定を歌仙と勘違いしているわけではない。
 嫌がらせ?
 懲罰?
 否。
 陸奥も石切丸も、ごくりとナニカを呑み込んだ。
 和泉は決めたのだ。
 之定を、歌仙だと。
 決めたのだ。
 歌仙の代わりを本丸に据えつけることを。
 自分が愛する者を、無理矢理、之定に決めたのだ。
 自分が狂ってしまう寸前に。
 まだ、和泉は踏みとどまっていた。
 断崖絶壁の崖っぷちで。
 だがそれは、之定の苦境を助長するだけだ。
「和泉守。之定は歌仙殿ではありません! 和泉守!」
 万座の中で立ち上がった石切丸が訴える。之定が一瞬石切丸を振り返ったが、すぐに和泉に向き直り、その手が和泉自身の腹に動いたことに身をすくませる。
 之定には、和泉の手がどこにいくのかが怖いのだ。
 石切丸が今助けてくれようとしているが、どう考えても和泉の方が強い。之定はたしかに、古参達に愚挙を続けた。けれど、自身は二代目之定だ。あの、歌仙と同じ知能を持っていて当然なのだ。
 その思考を結集させ、ただ、和泉にだけ注視して、彼の一挙手一投足を見つめている。
 自分への被害が最小限になることだけを考えているのだ。そこには、きっと助けにならない石切丸の存在など、入る隙が無い。大体、自分が石切丸に助けを求めて、石切丸が和泉の前に立ちふさがれば、今の石切丸など和泉の腕の払い一つで首が飛ぶ。
 之定も石切丸も、背は伸びたが、まだ子供だった。
 付喪神その『力の差』を、古参は出さないようにしてくれているから、気づけなかったのだ。
 之定は、自分の体で感じたのだから。
 笑いながらの和泉に、爪先でふわりと頬を撫でられただけでざっくりとえぐれた自分の肉を。突き込まれた和泉の根が、自分の内臓をグチャグチャに引き裂き、全身の穴から血が噴き出したあの激痛を。腕を畳に押さえられただけで、桜餅のように潰れて砕けた自分の肘を。和泉に抱えられていた太股は、指が動くたびに肉が持っていかれ、骨が見えていた。手入れ部屋に連れて行かれたときには、四肢も首も、『繋がっていた』だけだったのだ。
 人間ならば、死ねていた。
 神だからこそ死ねず、神だからこその力の差がそこにはあったのだ。
 『穏やかな近侍』であらざるをえなかった和泉の『優しさ』を、之定は切実に感じた。
 彼が動けば世界が砕け散るのだ。
 だからこそ、彼は静かだったのだ。
 僕が、その、最後の一線を越えさせてしまった。
 恐怖の中にも、之定はそれに気づいていた。
 気づかなければ、和泉を恨んで終わりだったのに。
 気づかなければ、自分が悪いとは思わなかったのに。
 歌仙と同じその頭脳は、自分が巻き起こした自分の不幸を、如実に分析してしまったのだ。
 石切丸は助けにならないが、それだからこそ、石切丸に声をあげさせて、和泉に破壊させるわけには、いかない、と之定は思った。
 こんな事態なのに、助けてくれようとしている彼に、そんな不幸を味わわせたくは無い。
 だから、之定は、和泉以外を、見なかった。
「あー、食った食った! 俺ぁ、審神者から一月ほど砂風呂にでもつかって来いって言われたから、とりあえず今日はもう寝るなーっ! 急用以外で俺の部屋来んなよっ! じゃっ!」
 勢いよく右手を上げ、和泉は之定をかっさらって消えた。
 本当に以前通りの和泉だ。
 そういえば、今の和泉は目に紗を巻いていなかった、とみな、彼が出て行ったあとで気づいた。白目は依然赤かったが、常に笑顔だったのでそんなに気にならなかったのだ。
 石切丸は、震えながらその場にへたりこんだ。
 あの、之定を持って行こうとした和泉の前に立ちふさがりたかったのに。
 和泉は自分の席から立ち上がって縁側に出る間に、ちらりと石切丸を眺めて行った。
 彼はたんに、そこにいる者たちに席を辞す挨拶をしただけのつもりだっただろう。
 口も目も、笑みの形にほころんでいた。
 けれど、その紅い目と視線が会った瞬間、石切丸は、もう、足が床に張りついて動かないことを感じたのだ。
 之定と石切丸や太郎太刀は同じ時期にこの本丸に参画した。つまりは、ほぼ同じ年齢で、幼なじみと言っても良い間柄だ。
 之定は、たしかに性格は一部良くない部分があったが、神刀になりたくて、必死に石切丸のあとをついて勉強に励む頭のよい少年だった。石切丸がすることはなんでもしたがったし、実際、すぐにできるようになった。元々の頭が違うのだな、と何度石切丸は感心しただろう。
 その彼が、全神経を集中させて和泉を見ていた。
 石切丸では助けにならない、とわかっているからだ。それが石切丸にもわかって、己の力のなさに歯噛みする。背を撫でてくれる太郎の手が唯一の救いだが、彼も和泉に立ち向かおうとはしなかった。
 今生で、彼らの10倍以上の時間を生きている和泉守兼定。とても、彼ら三人が立ち向かえる相手ではない。之定を魔神への生贄に出したような絶望感が石切丸を苛んだ。
 だが、座は、座ってしまった石切丸がもう見えないので、和泉がいなくなったことで少し明るくなった。なんといっても、新刀で之定の身に起こったことを知っているのは、太郎と石切丸だけだったのだから。
「和泉守ってあんなお顔してらしたんですね。なんのためにお隠しになられてたのですか?」
「目が赤かったじゃろ? あれが、突然なったき、不気味じゃろて隠してたんぜよ」
「ああそういえば、白目が赤かったですね。けれど、それほど不気味だとは思いませんでしたが」
「稀に見る美丈夫じゃのーっ! カカカカッ!」
「そうよねぇっ! 色男が顔隠してたからアレだったけど、今日は眼福だったわー」
 新参は之定のことをよくしらないし、古参はあの和泉に少しだけ気を抜いた。新参から見てそんなに変に見えないのならば、彼らにはその方が楽だったのだ。
「……も…もしかして……之定様が……歌仙様のようになって……く…くださったら、全部丸く……収まるんじゃ……? ない…………ですか……?」
 こういうときには物おじしない五虎退が呟いたのに、古参は納得してしまいそうになる。それではあまりに之定がかわいそうすぎないか? という心はかみ砕いて呑み込んだ。
 今回の出撃でミスをしたのも之定だし、和泉の最後の一線を切ったのも彼だ。
 誰かに責任をなすりつけて、みな楽になりたかった。之定一人が我慢すれば、和泉は前の和泉に戻ってくれることだろう。古参には、新参の之定より和泉の方がはるかに大事なのだ。
 和泉が以前通りになってくれたら、本丸は天国なんだよねー、というみなの心が広間に充満していた。
 

[newpage]

 その数日後、短刀の部屋に之定が現れたことに短刀達はひっくり返って驚いた。之定は紙と筆を持って平身低頭だ。
「突然済まないが……歌仙様のことを教えてもらえないだろうか?」
「大丈夫? 和泉追い駆けてきてない?」
 乱が縁側を確認する。
「先程お眠りになられたので、大丈夫かと……」
 こちらも眠いのだろう之定が、目をこすりながら、ですから……と、短刀達を見やる。その喉元に花びらが散っていてみな目を逸らした。和泉が愛用している梅の香りが部屋に充満していく。歌仙から貰ったんだ、と律儀に着物に焚き締めていたものだ。之定は藤の香りを愛用していた筈だった。
「えっと、歌仙様の何を聞きたいの?」
「しぐさとか、ものいいとか、口癖とか……歌仙様らしくならないと……いけない……ので……」
「でもあんた歌仙様じゃないんだし、無理しない方がよくない?」
「でもっそうしないと僕っ……」
「似てないって和泉が殴るの?」
「いえっ……殴られることはもう、一度も……無い、です…………凄く優しくて………怖いぐらいで……」
 之定の青ざめていた顔が、少し赤くなった。
 最初の晩は怪我に怪我を重ねられて拷問でしかなかったが、一度手入れをしたあとの和泉は、骨が溶けるほど優しかったのだ。膏も使ってくれたし、二日掛けて慣らされた。昨晩は自分から『挿れてください』とねだったのだ。
 あんな快感、知らなかった。
 もう、本当に痛くはないのだろうか?
 と、之定は和泉を眺める。
 あの一晩だけ常軌を逸したのならば、やはり僕が悪かったのだ……
 あまりの和泉の優しさに、之定はもう、そう考え始めていた。まだ、緊張が完全に溶けたわけではないけれど、手入れされて健康体になった体に、和泉の愛撫は媚薬以外のナニモノでもない。之定は昇天させられ続けたのだ。之定も歌仙と同じ刀。性感帯が同じだった。
「まー、和泉は元から暴力奮うような奴じゃなかったしねー」
「はい……過日の騒ぎは、僕の不徳の致すところと自認しております」
 あまりにヘリ下られて、短刀達は苦笑してしまう。
「そういうのが歌仙様じゃないわ。歌仙様はいつでも自信満々で、穏やかだけれど、和泉より高飛車だったもの」
「……の……之定さんの前の雰囲気で、……『和泉』と……呼び捨てにするだけで……い……いいと思いますよ……歌仙様も……厭味、凄かった、ですから……」
「あんた、何気にきついよね、虎ちゃん」
「そ……そそ……そうですか? すみません。で……でも、歌仙様のように、という……之定さんのご希望が…………あっ!」
 カンッ、と障子が勢いよく開いて、あくびをしている和泉が現れた。
「何してんだお前、布団冷てぇだろ!」
 言葉も終わらぬ内に、之定の腕を引っ張り肩に担いでしまう。
「じゃりじゃり、早く寝ろよー!」
「和泉も早く寝なさいよっ!」
「ずっと寝てたさーっ! はははーっとなっ!」
 後ろに手を振られて、短刀達は暗い廊下に消える巨体を見送った。之定はしんなりと肩にぶら下がっている。
「もしかして、けっこう早めにどうにかなるのかしら?」
「之定さん、もう震えては……おられなかった……です、よね?」
「そりゃ、和泉に三日やられどうしなら、頭ふっとんじゃうんじゃないー」
 突然、沸いて出た次郎にニコと微笑み掛けられ、みな慌てて布団に潜って灯を消した。彼のシモネタは、まだ短刀達には早すぎるのだ。
「くそっ、色男の話で盛り上がれるかと思ったのにっ!」
 闇の中で次郎が舌打ちする。
「今日も歌仙様に会えなかったんでしょう?」
 月明かりの中、出撃部隊にいた次郎に声がかかった。
「まー……もともと、和泉しか探れないお人だからねー。うちらの誰より強いんだし……和泉でも、片手でいなすようなお人だからー。なにが文系なんだか。一番体育会系の癖してさー」
「ぼ……僕、思ってた……んです、けど………………歌仙様、が出現、するの……って、………和泉様がナニカを見間違った……と……いうことは、ない、でしょうか?」
「え? それって、和泉が、歌仙殿がいるって嘘ついてたってこと?」
「嘘……とは、申し上げてない……です……けど。…………和泉様がその……集中しすぎて、……歌仙様の面影をナニカに見立ててたとか……」
「和泉がすでにイッちゃってて、幻覚見たってことだろ? うちらもそれを疑ってたんだけどさー」
「でも、こないだの之定のミスは、和泉が歌仙様を見つけた時に、『自分と同じ顔だ』って声を出したことなんだから、実際にその時、歌仙様はそこにいらっしゃったと思うのよねっ」
「あ、そ……そそそ……そうですね…………之定様もごらんに……なったのですものね…………すいません」
 謝るように、虎もキュウ、と鳴いた。

 そのあとも、之定は和泉が寝た隙を繰って短刀達に歌仙のことを聞きに来た。之定が来ると聞いて、陸奥や次郎まで短刀の部屋を訪れるようになり、歌仙物真似パーティーとなることも多い。
「だから、あんたの以前のあの高飛車な態度で、『和泉』って呼び捨てにすればそれでいいんだってばっ!」
「以前の僕ってそんなに気分悪い存在でしたか? すいません……」
「歌仙殿と言えば『雅びではないね……』ぜよ!」
「アタシも何度言われたか……へへっ」
「戦場以外では絶対に大きな声も出さないかただったし」
「歌仙様、柏手の音が凄かったですよね!」
「拍子木みたいなカーンッて音を立てるのよねっ!」
 之定がパンパンと手を合わせてみる。祝詞を唱えるときにもよくするので、之定の手も木槌を鳴らすような音が出た。それにみんなはしゃぎまくる!
「そうそうそんな音! そんな音! 広間で全員が大騒ぎしてるときでも、一瞬で静まりかえるよね、あの音。板の間に響いて耳痛いったらっ!」
「歌仙様はね、雅びな言葉しか口にしないの。『うるさい』じゃなく『穏やかではないね』って」
「そうそう、『早く食べろ』とかも『冷めてしまうよ?』だよねっ!」
「それとか『冷めてしまっただろう? 取り替えようか?』って」
「あたしそれで取り替えて! ってお代わりしたら、笑われたわ……あの人の言葉は額面通りとっちゃいけないんだよねー」
「ぶぶづけたべておいきなさい……ですよね」
「そうそうそうそうそう! なんか京風なんだよね、あのかた」
「一番怖い人なのに、日常だとおっとり見せて騙してる」
「なぁ、おんし、歌仙様て呼ばれて、かまんが?」
 騒いでいるみなを尻目に、陸奥が之定の肩を掴んで真正面から問うてみた。
「歌仙と呼ばれることが平気か、ってことなら、別に、今は……なんとも………………」
「げにまっこと?」
「陸奥、それじゃわかんないって。本当になんとも思ってないのか、って」
「もともと、侍は名前が変わることが珍しくはないですし、刀はそれこそ、主君の命名で名前が変わりますから」
「イの字が主やき、かまんが?」
 之定が次郎に視線で助けを求めた。
「和泉を主と感じたから、もう名前とかどうでもいいのか、って。もう陸奥は、よくも何十年ここにいて、方言が抜けないよね、あんた! どんだけ強情なの」
 陸奥が何か言い争っていたが、之定は少し俯き、顔を上げた。
「最初は、殺される前に死のうと何度もしました」
 突然の告白に一堂が目を見開く。
「僕を嘲笑するあのかたが怖かった。化物だと思いました。でも、今はとても優しくて……」
 カァッと顔を赤くして、また俯く之定。うっとりした視線で自分の指先から床を見つめ、障子を見上げる。まるでそこに和泉が現れたかのように。短刀も何人かがその障子を振り返った。
「寝ているときにたまにお泣きになるんです。その涙が紅いんです…………
 和泉様は、そうしてまだ歌仙様のことで泣いているから、目が治らないのですね」
 あー……と、次郎や陸奥が嘆息する。いまだに、堀川がそのことでたまに泣く。今生では和泉の方が歴史が長いから、堀川はただ、身の回りの世話をするだけなのが口惜しいらしい。
「僕が、そうなることで、少しでもあの涙が止まるなら…………」
 之定のほうが、泣いていた。
「僕はまだ、和泉様を思って血の涙なんて出ません…………あのかたがどれだけ歌仙様を想われているのか、そこに僕が追いつけるとは思いませんが…………それであのかたが笑ってくださるのなら、……いい、のです」
 短刀達も涙ぐむ。
 陸奥もじわりと来たが、次郎を見た。喋るなと言われたのでお前が言えと顎をしゃくる。
「でもねぇ、和泉は必ず歌仙様を見つけるよ? その時あんたどうすんの?」
 馬鹿な質問だ、と次郎も陸奥もわかってはいた。
 『歌仙を捕まえた』というのは『忠興を殺す前』ということだ。殺したあとに捕まえても意味がないので、その時はまた時間を遡らなければならない。
 つまりは、『歌仙を捕まえた』時点で歴史は修正され、之定は消えるのだ。
 忠興を殺した瞬間歌仙が消えたように。
 だから、この質問は愚問なのだった。
 それを考える時間も、対処も、之定には手が出ないことなのだから。
「かまわないです」
 之定は真っ直ぐに陸奥の瞳を見つめて言いきった。
「僕も、歌仙様も、二代目兼定に違いはありません。和泉様が愛してくださるのは、二代目兼定だから」
 之定は自分で頷いて、瞳を伏せ、開けた。そして、自分の胸を両手でそっと押さえる。
「最近、和泉様に愛を囁かれるたびに、僕の内側で、僕とは違う人がくすくす笑っている気配があるんです」
 之定も、くすくすと笑った。
 その顔が、『雅びではないねぇ……』と、歌仙が笑っていたそれに見えて、一堂がくちびるを噛む。
「歌仙様は、僕だと、思います」
 

「人を斬りたくなかった歌仙様の心が、そのまま僕になったのだと、思い、ます」
 
「僕が和泉様に愛されて、歌仙様も喜んでくださっていると、思って、います」

「どのみち、将来なんて僕ではなくても誰にもわからないものでしょう?
 何も気になりません。
 和泉様が傍にいてくださったら」
 クスクスクス、と之定が笑った。
 それが歌仙のそれと重なって、陸奥も次郎も背筋を震わせる。
 たしかに、歌仙と之定は『同じ刀』なのだ。
 黙り込んだ陸奥を前に、之定が顔を上げる。
「和泉様が起きられたようです。失礼しますね」
 和泉の部屋なんてここから遠いのに? と陸奥が次郎と顔を見合わせる。
 ぱたぱたと立ち上がって出ていった之定は、廊下に石切丸が立っていたのを振り返った。部屋に入れず立ち聞きしていたのだ。
「僕を、助けてくれようとしてくれていたよね。礼を言うのが遅くなってすまない。ありがとうね、石切丸」
「……私は……何もできなかった」
「あの和泉相手に助けようとしてくれたことが嬉しいよ。本当に、ありがとう」
 月明かりは庇の向こう。石切丸の顔は之定からよく見えなかったが、少し震えているのはわかった。
「君は、今、幸せなのかな?」
 之定、と呼ぼうとして、石切丸はくちびるを噛んだ。次の瞬間、之定に抱き締められて、柱にぶつかる。
「幸せだよ、凄く、幸せ。君のおかげだよ」
「私は、何もできていないよ」
「ううん。君がいてくれたから。
 僕を助けようとしてくれた君がいてくれたから、僕は、耐えられた。狂わずに済んだ。
 だから、和泉様は僕に優しくなってくれた」
 君のおかげだよ、ともう一度囁いて、之定は静かに廊下を歩いて行く。
 その場でうずくまって泣いてしまった石切丸は、短刀達に部屋に引きずり込まれ、茶を振る舞ってもらった。
「あの子が笑えるようになってくれて、良かった……です……」
 石切丸は、幼子のように微笑んだ。

 

 
作成日: 2015年5月11日(月) 11時26分原稿

作成日: 2015年5月12日(火) 03時35分

作成日: 2015年5月14日(木) 11時05分

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